投稿

鋭角天皇はマジで気持ち悪くて冷静でいられない

イメージ
随分久しぶりに見た『かぐや姫の物語』のおかげで、スイッチが入ってしまって、呪いが復活してきた。 久しぶりにテレビがある環境でパチパチ仕事していて、金ローが始まった。 ジブリ映画『かぐや姫の物語』。高畑勲監督らしくダイナミックなアニメーション。初めて見たのも金ローだった気がする。 何が、どんな、スイッチを入れたかなのだけれど、単純なことで、この世の日本人女性が息を飲み、思わずフラッシュバックする例のシーン。 私がこうして喜ばぬ女はいないのだと、帝がかぐや姫を後ろから突然襲う(羽交い締めにする)シーン。 このシーンがいかにキモくて、「なんてリアリティなんだ」という語りも可能なのだけれど、先月久しぶりに身の毛がよだつようなことがあって、”スイッチ”が入ってしまった——。 このシーンで、背筋がゾッとした女性は多いはず。 実際に好意もない男性に、このように羽交い締めにされるまでなくても、頭をぽんぽんされたり、「俺のこと…どう…?ドヤァ」と見つめられたり、腰を抱き寄せられたり、そういうことをされた経験が悲しいことに女性の8割がた以上に見られるはず。 美醜や、容姿。モテるモテないは関係ない。この世には星の数ほど男がいて、それだけいればクズどころかゴミ以下の感性の生き物はそれなりにいるからだ。 不躾で、脳機能に障害でもあるのかと思わせるような男は、許可してもいないのに触れてくる。だいたいこういうオッサンたちは、まるで「男に——オレにモテるの、光栄だろ?」という態度なのがますます腹立たしい。 全身の毛穴が開く。髪が逆立つような感覚が走る。フリーズして、泣き出しそうになる。 けれどもそれらはコンマ数秒の時間もなく、気取られぬように笑顔になって喜んでいるふりをする。そっと男性の様子を見ながら、喜んでいるふりをして喜ばせて、隙を窺う。腕を掴まれたりしないように、少しずつ少しずつ、後ずさる。知り合いが手を振ってくれた瞬間、酔っ払っているふりをして、そちらに駆け寄る。まわりは「また今日もモテるね」と笑う。 30も半ばになっても、心身に染み付いた「かわいいコでいなきゃ」が発動する。 「男の人には、愛想良く、可愛がられなければ、生きていけない」 帝おっさんが多い。でも20代などの若い男の子でも、いる。 きっと歳をとっていけば、手を伸ばし始めるだろう。そこに、陰キャ・陽キャの境目もない。今はまだマ...

見栄をはりたくって、みっともない

本来自分が感じたり、考えたりしたことを 否定される癖がついて、黙り込むようになった。 同じく、「人様にお見せするにあたって…」「見栄をはりたい」などと思うようになり、 誰も見ないとわかっているブログさえ、黙り込んでしまった。 mixiがあって、まだSNSって言葉が生まれて間もない頃。 私はネットに自分の言葉を吐露することが大好きで それこそ迷いもなく、誰も見ていないとわかっていた。 それでこそ、自由に吐露できるのだと思えていた。 なのに、今はどうしてネットにさえ自意識過剰になったんだろう。 大人になっていくにつれ、出会った人が増えるにつれ、 くだらないかっこつけがたくさん必要になった。 出会った人それぞれに合わせて、仮面をかえるものだから、 結局どれが素顔かさえわからなくて、 気がついたら居場所が変わってしまっていて。 そしたら「みんなが見ているかもしれないところで、どの自分でいるべきか」と、 戸惑うようになった。 誰も見ていないし、誰しもが見ている。 仮面の下さえ、綺麗に取り繕って、押し黙ってしまう。 だって「どうせ、まちがってる」から。 私なんてどうせ、と寂しがりがずっと言っている。 声が聞こえたんだから、自分で自分を迎えに行ってやらなきゃいけない。 寂しいに決まってる。 だって手足をもがれたような痛みで、そこにピン留めされてしまったみたいだから。 みっともない自分を迎えにいこう。 そんでもって、開き直ろうと思う。 私はこんなに根暗で、正直幸福な状態を保つなんて芸当は、すごく体力を消耗するんだって。

ハロウィン

今は地蔵盆みたいに、子供たちが仮装してお菓子をもらいに行けるご町内とかあるんだろうか。 子供の頃、まだ周囲には「ハロウィン」なんてものが「外国のお祭り」くらいのものだった頃。弟といっしょに魔女の帽子とマントで祖母の家に行き、叔母からお菓子をもらってビデオを見るのがハロウィンだった。 うちの家は、父も叔母たちもカトリック系の学校出身であったりしたこともあって、わりと西洋文化が大好きでハロウィンもその一環なのか、物心ついた頃から普通の行事だった。 USJができたときには、ハロウィンシーズンに行くと仮装グッズが売られていて、 まだネットでそういう物が手に入ることも、ダイソーもなかった頃だから大喜びで仮装グッズを買い、毎年のようにそれを着て叔母と祖母に「トリックオアトリート」と声をかけに行った。 叔母はとくに西洋文化に詳しく、渡されるお菓子もいわゆる「キャンディ」で、日本では見かけないような色や形の飴やマシュマロが、オレンジ色のプラスチックでできたジャックオランタンに詰め込まれていた。 そして私と弟は、そのまま叔母の部屋で”ハロウィンにしか見せてもらえないビデオ”を見ていた。 ディズニー短編集で、「怖いお話」だけが詰め込まれたオムニバスVHSで、いつもはなんでも見せてくれていた叔母たちにも、なんとなくハロウィンにしか見せてと言わなかった気がする。 ミッキーたちがお化け退治をしたり、骸骨が踊るシリーシンフォニー、 「今日はラッキー、今日はラッキー、俺はついてるぞ〜」と歌うドナルド(この後最高に不運が続く)。 魔女と結託する甥っ子アヒルたち。 そして極め付けは『ナイトメアビフォアクリスマス』 ジャックとゼロは弟のヒーローだった。 まだまだマイナーだったけれど、ちょうど少しずつTDLのホーンテッドマンションでのコラボなどが現れ始めて、トレーナーやグッズを弟はよく買ってもらっていた。 (私の推しはプーさん) 学校では通じないけれど、弟と私のなかでは「ハロウィン」は当たり前だった。 ハロウィンとクリスマスは、我が家では非常に伝統的な形で存在していた。 それは毒親ながらも父が一生懸命に「子供たちが子供たちらしくいられるように」たくさん与えてくれたからだと思う。 大人になっても、ハロウィンとクリスマスは私には特別なままで、 必ずハロウィン用のディスプレイを出してきて、部屋の中に飾り、 今...

「幸せ」だけを反芻する

イメージ
京都でお買い物といえば「河原町」がキホンになる。 「河原町通」は南北の通りのことだけれど、「河原町」と言ったらだいたい四条河原町を起点に三条までがせいぜいのエリアだと思う。 南は五条までいれると言い過ぎるかな。 立派な繁華街なのだけれど、どんなに誉高いことを言おうとも、京といえども実態は地方都市なのでなんとなく古臭い。 だいたい十代から二十代がメインターゲットのような昼の姿に、オトナは烏丸通りに行ってしまうのだけれど、河原町といえばBALがある。 BAL(京都BAL)は何年か前に改装されて、我らが丸善書店を残しつつ、ちょっと背伸びしちゃいたくなるショップが入っていて、小汚いエコバッグを担いでは入りにくい。 かつての仕事終わりの姿では絶対に恥ずかしくて入れなかった。 (裏方業なので全身装飾のない黒づくめ) 今はフリーダム労働中なので、早々に仕事を切り上げてBALに向かう。 久しぶりに来たら、マリージュ・フレールのお向かいが変わっている。 マルニの奥がすっからかんになっている。 うっとりするマルジェラのバッグが並んだショーウィンドウを横目に、エスカレータを登る。 気の利いた生活雑貨が並ぶTODAY'S SPECIALで石鹸を買うなどして、やはりエコバッグが場違いな気がして急いでエスカレーターを降りる。 急いではいるのだけれど、やっぱり立ち寄らずにはいられないお店に吸い寄せられていく。 大好きなハウスウェアを扱う「Madu」をスルーできたことがない。 最近は手ぶらで出ることがやっとできるようになってきたけれど、季節ごとのテーブルウェアはチェックしてしまう。 昔は京都になくて、私の場合は叔母と過ごした横浜の店舗によく行っていた。 叔母の家にはMaduのすてきな食器が多くて、それに憧れていたこともMaduが好きな理由になっていそうに思う。 「京都にない、憧れの生活にまつわるもの」 それは私にとってキラキラした愛おしいものになったのだと思う。 これだったらこんな料理にもあれにも使えるな。 家にある、あのランチョンマットに合うな。 母のお茶碗と汁椀にも合うこのお皿はよく使えるかな。 あれこれ一緒に食事する人や、食事の内容を思い浮かべて選ぶだけで楽しい。 そうしてふと微妙な記憶がフラッシュバックする。 同棲を始めた頃に家のカトラリーや二人で使う食器を買いに来たことを思い出し...

ちょっとずつ良くなってきた。ちょっとずつね。

イメージ
 春になってから、知らぬ間に迫ってきていた”不調”の手がいよいよ伸びてきて、 気がついたらすっかり身も心も破壊された気分が続いてる。 なんとか「普通なふう」に過ごそうと、友達と会う機会を必死に削らぬようお決まりのDJパーティーには顔を出す。 どうにかこうにか、元気に愚痴って笑顔で「ほんとやばいよー!どうしようー!」と笑うことで、自分の中に鎮座している希死念慮に圧をかける。 彼は非常に厄介で、決して消えて無くなってくれない。私が元気な時だってずっとそこに座り込んで、じっとこっちを見ている。元気がなくなってきたら、そっと肩を叩いてくる。 だから彼にそこでじっとしてろと、圧をかける。 本当は、お願いだからだれかやって!この問題解決やって!!と叫び出したくなる。 けれど、そんなこと誰にも頼めるはずないし、誰もできるはずがない。 それは周囲が薄情なのではなくて、結局自分のことは自分でしか解決できないものだから。 思わず、頭の中に居座っている彼のところに泣きついて、いっそ楽になれやしないかと過ぎる。 朝起きてから出かけるまでの小さなタスクから、来週の予定をどうするか、この後誰に会うのかといったささやかなことも。 今自分が抱えている問題に対して、どのように向き合ってどう対処するのかといった実際的な事柄まで。 そして、身体の不調に気づいて対処したり、防ぐための行動や選択といったことさえも 今私は何一つ、自分でコントロールすることが難しくて 暮らしていることの全てが、惰性的。 息をしていることさえも。 そんな今の状態が非常に悲しくて、いっそう辛くなってしまう。 ただ、やっとすこし落ち着いてきたのか、周囲のサポートの手をとることができそう。 だいぶ良くなってきたのかもしれないし、底にたどり着いたということなのかもしれない。 少なくとも、自分自身の支配を自分ができていないことを、実感して認識できてきた。 だからなのか、ちゃんと文章にできるようになってきた。 ついさっきまで、自分の抱えているものはどこにどのように記せば良かったのか、思い出せなかった。 昔からずっと、とりとめのない誰も見ないだろう文章は、WEBに流してきたのに、 文章を書くことさえできなくなっていたから、今こうしてタイプしているのは良い兆しなんだと思う。

みんな普通でいる努力をしている

イメージ
クリニックの待合室。 「ぼちぼち、先生に話すことなくなってきたなぁ」とも思うけれど、ある意味通院は免罪符のようになっていて、自分にとってのフツーは " 通院するくらい " がちょうど良いのかもと思えてくる。 「フツーでいるのは難しい」 とよくぼやくようになった。 誰かの言動に一喜一憂しても、他の誰かと話すだけで心を和ませたり。 朝きちんと起きて、電車に乗ったり。 そういう、みんなが当たり前にしてるフツー。 これが私は上手く出来ない。でも何度もそうぼやく。つまりホントは「フツーになりたい」。 フツーになりたくて仕方ない。 お仕事も、フツーの企業で書類処理とか電話対応とか。朝行って、夕方に帰るとか。帰ったらご飯作って、お家のことして、眠りたい。 フツーに誰かに特別負荷をかけることなく、人と関わって暮らしたい。 ただ、フツーに暮らしたい。 でもまぁ自分のこれまでに選んできたことのひとつひとつが、今の自分の体質とか性質とかが、 フツーでいられない。フツーでいる努力をしてこなかった。 なんでこんな体弱いねん、と。 なんでこんなメンタル弱いねん、と。 通院が、フツーをきちんと行う皆々様への免罪符になってくる。 「ごめんな、こういうことですねん」 そう言うみたいな。 でも多分この免罪符は、本当はみんなほしい。 フツーの人も、本当はほしい人がたくさんいる気がする。 だから、本当はみんな「フツーでいるのはしんどい」んじゃないかな。 フツーっていうのは、 結構な努力を前提とした在り方なんだよきっと。 だから、あんまりフツーに近づけなくても良くて。 それでも、努力を惜しみたくないと思うきもちはどこから来るのかしらと結びかけの靴紐を眺めて考えてる。

「イマドキ」にアップデートした実写版『リトル・マーメイド』

イメージ
 実はとくべつ興味がない「ディズニー実写化シリーズの波」 Disney+があるから、劇場にいくほどのことは基本ないと思っていたのに、なぜだか劇場に観に行こうと決めていて、友達を誘ったら「公開初日行けるよ!」と初日に行くことになり…。 たいへん、たいへん満足をいたしました。 自分の「よくわからん勘」が誇らしいほどです。 しかも直前に聴いたPodcast(TBSラジオ)『アフター6ジャンクション』で 特集:「千年超えた今だからこそ面白い!現代人ならではの読み方で名作古典『源氏物語』をたのしもう!特集」by山崎ナオコーラさん を聴いていたのでより一層染みた…! 是非合わせてお聴きください。 アニメ版は1989年公開。世界中がしってるアンデルセン童話『人魚姫』がモチーフ。大筋にネタバレも何もないかと思うのですが、実写版オリジナルな展開などが、なによりも素晴らしかったので必見です。 その辺も感想として触れていきましょう。 ここまで大筋を理解し切った上、制作スタジオまで同じとなると「一体どんなふうにあのシーンを描くの?」「あの歌はどうなる?」など比較しながらしか見れない。 前半は姉妹のアンサンブルが一切なくなり多少寂しかったり、 セバスチャンのカリブ出身みが無く、Under The Seaもそういう意味では方向性が異なって…うーん。 でもね。 全て見終えて、納得しかないのです。 アニメの「リトル・マーメイド」が好きで、同じでないとと感情がざわめくのなら、アニメ版だけを見てこの実写版は存在しないことにして良いと思います。 これは2023年、限りなく現実化という実写化を完璧に行った映画でした。  ヴァネッサは魔法でエリックを操ったのか? 話すことのできないアリエルに心を惹かれ始めるエリック。アリエルを見守る周囲はこの調子で行けば3日目の日没までにキスできるかもしれないと期待するが、それを阻むべく美しい娘に姿を変えた海の魔女が現れる。 彼女はアリエルから「脚」の代償に預かった声をつかって、エリックの心を捉える。 物語のハイライトのひとつであり、コアなファンが大好きなキャラクター「ヴァネッサ」登場となるシーン。 私はこれに付随するシークエンス、実写版においては「ヴァネッサは魔法でエリックを操ってはいない」と観たのです。 アニメ版では、ヴァネッサ(アースラ)はアリエルの...
イメージ
 私はすっかりそのことに気がつくのが遅れた。 どんなに辛いことでも、「でも、魂的には良い学びだったから」と全てを『受容』しようとする。 本当に辛いことほど、そうやって片付けるほかないと思ってきた。今もまだ、そう想う。 誰かに、友人に、家族にそんな話をしたところで何も解決しない。「つらかったよね」という共感による癒しは、ありがたいけれど「ありがたい」と思わなくちゃいけないし、それでも何も現状を変えてくれない。それは私にとっては意味がない。 身体を抉られるような痛みは、そんな言葉で癒やされるわけがない。 そんなことよりもここまでのことが起きたなら、それ相応の学びと成長が得られるはずじゃないのかと——早く痛みを忘れたその先に立たせてほしいと乞う。 痛い時に痛いと言わず、イマの自分をおいて、乗り越えた先の結果ばかりを急いている。 それは、その様は決して「スピリチュアルな生き方」をしていない。 イマの自分は、傷ついて痛みを伴っている。 それがどのくらいの痛みで、何がどんなふうに痛いのか、誰かに話す必要がある。 ——だって誰かに話すために、きちんと観察して、洞察を経る必要が生じるから—— 痛みに気づかないふりをして、「これしきのことで」と血まみれになりながら反省文を書こうとすることは、決して自分を生きていない。 だからそれはたしかに「Unhealthyだ」。 Photo by  Jonathan J. Castellon  on  Unsplash

「このウニョウニョするものが『エゴ』か」

イメージ
「note」で、うまれてはじめて有料記事をつくった。 2023年は「こうしよう」と思うことが例年より具体的で、そのなかに「スピリチュアルに傾倒していこう。強調していこう」がある。 ライフワークとして、スピリチュアルのことを語れるジャーナルをつくることがやりたいなぁなんて、ぼんやり思い始めていた時。 ヒーラーでありチャネラーの友人が、おもしろい”やること”を教えてくれた。 「霊界から私が教わった、目に見えない世界のことを、ちゃんと後の人も知れるように、残していく時みたいなの。これ、どうやるのかな。本の出版とか?」 彼女とは友人でもあるので、これまでも彼女が興している活動についてアドバイスをしたり、お手伝いをしたりしてきた。 でも今回は、私個人のやりたいことと、彼女の”やること”とが、ピッタリ重なった。 早速彼女が霊界から聴いたという事柄を、話してもらって、書き起こして記事にした。 それにおいて「note」は現状、ピッタリだと思う。 私たちが伝えようとする事は、誤解をなるべく最小限にしたいから、どうしても文字数は増える。 そして、気楽なweb媒体として、流し読みをして異なる解釈をしてほしくない。 でも、web媒体らしく、広がっていってほしい。 「どこかの、だれかに、いつか、ちゃんと届いてほしい」 そう、「どこかの、だれかに、いつか」。 今じゃなくていい。20年後でもかまいやしない。 その人に必要な時に、きっと出会える。だからその時が来るように、その時まで、”のこして、置ける”ようにする。 それがこの記事を公開した理由なのに、恐ろしいことに記事を公開して、SNSでシェアを上げたところで「スキ」や「購入されました」の通知が気になってしまった。 『宣伝したくなる』『人を呼びたくなる』 私のエゴがウニョウニョしはじめる。 SNS上で、人を引っ掛ける”しくみ”だけなら、色々知ってる。 その知識を試すか?試すだけだよ? とウニョウニョが問うてくる。 「これに出会ったのは幸運ですよ」とか 「これを読むあなたには開運が訪れます」といった、よくある売り文句だし、ただのキャッチコピーだ。 それでも言葉はおもしろくて、 ”ということは、これに出会えなかったら、開運できないの?” って逆を発生させてしまう。 片方を存在させたら、もう片方だってその存在が生まれる。 よく知ってるはずだ。自分がもし...

それを、下から見るか? 横から見るか?

イメージ
 また久しぶりにnoteをつかって、えげつないオタクトークを繰り広げ始めてしまった。 (これ: 私のDisenchanted|note ) Disney+で公開された『魔法にかけられて2』が、思った以上に刺さったから。 自分のクセとして、たいてい独自目線の価値を見出すものだから、あまり共感されにくい感想や感情を抱く。 たとえば大ヒットアニメといえば、新海誠監督作品の『すずめの戸締まり』。 『君の名は。』以降の深海作品はなんとなく「ああ私の求めてるものじゃないな」と思うので観ていなくて、題材的には『すずめ』は観てたのしいかな?と思ったけれども、どうもそういうことじゃない(そういう目線が50%以上をカバーし切らない)気がして、劇場に行くのはやめてしまった。多分このまま永遠に観ない…。 深海監督の作品は、高校生の時に『秒速5センチメートル』に出会ってから、あのぐずぐずに煮詰めたみたいな感情の渦のセカイが好きで、そして「それでも世界は美しいことに変わらない」と思わせてくれる背景美が大好きだった。 その分、そうした要素を薄めたような『君の名は。』は、公開早々仕事終わりにレイトショーにまで観に行ったのに絶句してしまった。そうしたショックで「もうそういう作品時期ではななくなられたのね」と観ないことにしてしまった。 私は「毒」が吸いたいのに、めちゃくちゃに綺麗な空気を吸わされた気がしたのだ。 『魔法にかけられて2』も、配信直後同じように絶句したり、落胆した人の感想を見かけた。 配信して視聴する時間をとるまでの間にそうした感想を目にしてしまって「え、そんなひどいのか…(まあディズニーの”2”やし…)」と思いつつ、 まあそういった感想の詳細は見た後にしよう、と思うくらいにはどこかで期待したまま、それでも一番大嫌いな家事・洗濯物たたみのながら視聴を決行した。 そしたらまあ全ての手は止まり、なんなら試聴していたiMacとは別にMacBookを開いてメモテキストを取り始めてしまった。 私には見事に「いいところ」がクリティカルヒットだった。 一気にテキストに書き上げてから、落胆した感想をあげていた人たちの記事を見に行った。 ここで信じてほしいのが 決して「おうおう、どんな感想やってんワレェ…」という対立の態度を決して抱いていないということ。 私の信条は、決して何かが絶対的に正しいという...

SFのSはサイエンスだって知らなかった

イメージ
BNBのピンク色のバーカウンターで、「どんなアニメが好きか、おすすめしたいか」といった話題で話していた時に 「むちゃくちゃSF好きやね」 と言われて打撃を受けた。 私は別にSFが好きだったことはない。と、思っていたから。 父はSFが好きだった。娘をオタクに育てたオタクなので、いろんな映画やアニメを観ているのを一緒に観ていた。 それゆえにか、好きなアニメは?の質問には50代おじさまたちが喜ぶアニメ作品がオールタイムベストと応える。 そして父が何よりも心血注いで教育したのは「ディズニー」で、おかげさまで私の”好き”の基盤は、ディズニーをもとにする”ファンタジー”となった。 なかでも、パラレルワールドのような、襖一枚隔てた向こう側には、その世界が広がっていて、ひょんなきっかけで自分もそこに転がり込めそうな、そういう”描写にリアリティのある”作品を好む。 ただ、それだけだと思っていた。 突如放り込まれた「SFが好きなんだね」で、自分にSFが好きという意識が立ち上がってしまったからか、ちょっとSF作品に意識がたくさん向いてきた。 それに、「おもしろいSF」は自然と手元に流れていた。 手始めに手に取ったのは、柞刈湯葉 著『人間たちの話』。 そう、大好きなPodcastで耳にタコができちゃうくらいに聞いた作家本を買ってみた。 これが面白い。するする読める。 「つ、続きが読みたい…!」と、眠くても電車の中で本を開く。ベッドに入ってまだ開く。 そうして、「よし、あんなにPodcastで良い良いと言われた大作を読もう」と意を決して手にしたのがアンディー・ウィアー 著『ぷロジェクト・ヘイル・メアリー』。 SFが好きな人の間では、2022年最高の一冊だったはず。 この本を、大垣書店で手に取った時、隣に並んでいたのが 『戦闘妖精・雪風<改>[愛蔵版]』 文庫本はまだ捨てずに残ってあるから、そっと棚に戻してしまったけれど、私はSFが好きなんだなと改めて、突きつけられたようだった。 ずっと何の気なしに好きだと思っていた作品群が、立派なSF作品だと知ったのは、多分ジャンルで縛らずに、嗅覚だけでいろんなものを摂取してきたから。 でもちゃんとその嗅覚は働いていて、”スキな”ファンタジーに集約されていく。

トロフィーウーマン

イメージ
「トロフィーウーマン」という概念が今も残っていたら、相当叩かれるはず。 ウィキペディアによれば正しくは「トロフィーワイフ」という言葉らしいけれど、私が教わった言葉の意味はそのままなので、まぁ「トロフィー」として女性を扱う、現代では総スカンどころか社会問題にされそうな言葉。 20を過ぎた頃、歌の師匠がいて私は彼女のお気に入りだった。 鞄持ちみたいなもので、営業について行かせてもらったりして、いずれ引き継がせるからと教わっていた。 プライベートも割と一緒に過ごしていたと思う。 私も先生に可愛がられているのがうれしかったし、楽しかった。 それをみた叔母にこう言われた 「トロフィーウーマンやな。まぁあんたは最適なんやろ」 その言葉の意味をその時に知ったけれど、その時はあまり気にしていなかった。 実力の伴わない「お気に入り」でしかないと、揶揄された自覚も無かったし お気に入りでい続けることに必死で、後にその「お気に入り」から外れた頃の辛さの方が勝っていたから。 先日うっかり顔に引っかき傷を作ってしまった。 今まで肌荒れはあれども、顔に怪我をしたことは無く、軽傷とかどうとかよりも「顔に傷がいった」ことにあんまりショックでその場で泣き出してしまった。 なんとなく、容姿に対して妙な執着を持っているとは自覚していたけれど、顔の傷ひとつで泣き出すほどだとは思わなかった。 なぜその感情が湧き上がるのかなどをひとりで粛々と掘り下げて出てきたのが、その叔母から言われた トロフィーウーマンには最適 ——他に何も価値を持てない という言葉。 実際に言われた言葉に、本人がそう思っていなくても、言われた方は別の解釈をつけていることがあって、私は 「顔や容姿以外価値を持たない」 と言われたように感じたらしかった。 「そんな事ない」と、頭では知っているしその根拠も挙げられる。 でもこころは頑なにその言葉を手放さない。 「トロフィーウーマンってなんやろって調べたら、思ってた100倍酷い言葉やった」 と驚かれた。 現代を生きる人にとって、そのくらい耳にしないしあってはならない言葉。 でも私はずっとそうあらねばとして来た。してきた時間が惜しいのかもしれないし、それ以外に絶対的な自信が持てないのかもしれない。みんな無条件に、顔なら褒めてくれるから。 だから、手放さないのかな。 もうしんどくなるし、そうじゃないの...

「自分最優先」ができるかできないか

イメージ
職場復帰。 お休みの間思う存分に遊んで、生活のリズムができてきた。きっとこの範囲なら大丈夫じゃないかと思ってた。 電車を乗り換えて、最寄り駅まで近づくにつれて呼吸のたびに耳の奥がゴオゴオいいはじめる。 身体の奥底に、重石が置かれたみたいに呼吸がしづらい。 ゆっくりと立ち上がって、階段はしんどくてエスカレーターまでヨタヨタ歩く。 結局、仕事に復帰はしたけれど、「しんどい」が現れるのは休職前と変わらなかった。 てっきり、超過労働気味なのが辛いのかと思った。 てっきり、その責任がつらくて、打ち合わせや現場を外れたら大丈夫だと思った。 お医者さんも上司も、私があんまり楽観的なのを心配して「少しずつね!」と念押ししてくれていて、よかった…。 時同じくして、周囲でも同じことをいう人がチラホラ。 同じように辛くなってきた人の言葉を見ていて、少しだけ視界が浮いたので、違った考えがうかんできた。 【仕事】はどうして人の心を忙殺するのか。 意味が重なりすぎている誤った日本語な気がするけど、あえてこの言い方で。 「仕事をする」ということは、相応にして「他者のためにすること」だ。 別に私は、あなたがDVDの作り方がわからなくても困らない。でも、教えてあげるのが仕事。 あなたがそうしたいなら、親に手紙を読むときに"エンダー"をかけてもいい。でも、いやそれ大サビうるさいし、バラエティみたいになるからやめといてっていうのが仕事。 「この仕事片付けておかないと、〜さん困るだろうな」 「このファイルコピーしておかないと、後輩にわるいな」 「人のため」ができない人は、会社で嫌がられるし、社交の意味でも【自己】や【自我】は優先度がさがる。 自分のためだけじゃないことを、頑張る代わりにお金で対価をもらってる。それが今の社会のキホン。 お家に帰ったら、一緒に暮らす人がいて 「ごめんね、あなたのために何もできてない」 ごはんつくったり、お風呂沸かしたりしてあげたい。 私もお風呂に入らなくちゃ。明日"誰か"に不快な思いをさせちゃうかもしれないもの。 一日24時間、その中でどれだけ「自分のためだけの時間」があるだろう。 なんだかんだ言って、「自分が気持ちいい」と気づいて選択できたら、それでいいけれど、全てが"誰かのため"ではじまって仕方なくそこで考えを終...

泣き出したのは、怖かったからなんだって——

イメージ
射手座にある月が、満月を迎えようとした朝に 唐突に自分の身に起きていた物事を理解した。 体調が思わしくなくて、理解できる限りの対処をしていた。 昨年の終わりから、ずっとこころにつっかえていた感覚が、体に出はじめた。 だから、これはもう仕方がないんだと、病院に行った。 だからそう、しばらく「ボディ」のことに集中していた。 でもちょうどその辺りからきっと、新しいレッスンがはじまっていたんだと思う。 「ボディ」ってことは、この地球に実在している三次元の世界のこと。 時々あらわれる”サイン”には気づけていたから、余計にそのことに気づくのが遅れた。 いつもなら、ほんの些細なことでも”考えられていた”と思う。 なぜこんなことが起こるのかとか、なぜそうアプローチするのかとか、 いつもちゃんと、それらを考えて、答えを出して、選択していた。 でも途端に、声が聞こえなくなったような気がした。 「なぜ」を考えても、見えてこない。 世界は固く口を閉ざしてしまって、「私はこれを望んでる」って返事を返してくれなかった。 自分の声さえきこえないから余計に、頭ばかりが回っていた。 こころが見当たらないことが怖くなって、泣き出したりした。 でもちゃんと、その時はくるもので ぱたっとベールが外されたみたいに、こころが目の前に差し出された。 ほっとした。 ちゃんと今回も、自分が望んだはずのことが起こっている。 「なぜ」とかそういったものの答えは、後にならないとわからない。 そこは未来予知が効かない世界。 だから「なぜ?」と苦しい時は、とにかくその先に行くしかない。振り返れる場所まで、歩くしかない。 「なぜ、がみえない。こころが、みえない。でも大丈夫だよね?そうなんだよね?」 毎朝神棚に手を合わせるときに、思わずこう言った日があった。 ちゃんと大丈夫だった。 あとはそう、「この気付き」というものを、自分自身が「そう思い込みたいこじつけだ」とか言って、亡き者にしないようにするだけでいい。 今はちゃんとこころの声がもどってきた。世界は返事をしてくれる。 にっこりハートマークに見えるシンクに残った泡や ランダムで現れるスクリーンセーバーのお気に入りの写真 ちゃんと、返事がある。 Photo by Ryoji Iwata on Unsplash

その時は、それが「最愛」の選択だった

イメージ
 唐突に、夜景を見に行ったことを思い出した。 過去に男性が夜景を見に連れて行ってくれたことは何度かある。でも、この記憶は思い出すまで、すっかり忘れていた。 とある大学のキャンパスから見える夜景。それは少し遠くにあって、キャンパスの周囲は運が良ければ蛍が見られるはずだと、彼はそう行って連れて行った。 「結婚しよう」と言われた後だったか、言われる前だったかも覚えていない。 いつもの夜のコーヒーデートの後だったか前だったかも、覚えていない。 でも、彼の車で連れて行ってもらったあの景色を、途切れ途切れに覚えていて、そのことを唐突に思い出した。 そして、突然理解した。 なぜ、彼とパートナシップをきちんと築けなかったのか。築けないと思われたのか。 私はあの時、ひとつも楽しんでいなかったからだって。 彼が行こうと提案した。 彼が行きたいんだ、彼が満足するようにしよう。 こんなふうに考えていた。別に興味のない「夜景を見る」ってことに、目を向けもしなかった。彼がどこに向かうのか、彼が目の前にいるかどうか。それだけしか、考えていなかった。 私はずっと、それだけで幸せだと思っていた。 彼がどこかに行く、何かをする、その「ついで」でいいって。 「ついで」でいいから、そばに居られる、一緒に過ごせる。 たったそれだけが、叶っていれば十分だと。 ものすごく卑屈だった。 こうは考えられなかった。 彼が「恋人を”夜景を見に連れて行ったら”、よろこぶだろうか」って考えているかもって。 私の喜ぶ姿が、彼によろこんでもらえるとは、全く考えられなかった。 別に、実際そうでなくてもいい。彼がそんなことを、思わなかったとしても。 でも私は私で、楽しんだり、つまらないと駄々をこねたり、自分の感じた通りに生きてみるべきだった。 私は彼の物語の一部でいようとした。 決して事を起こさないで、ずっとモブのように振る舞えば、一緒に居られると思っていた。 相手のスポットライトが光るステージにて、私がスポットライトを当てられるような言動は、決してあってはならない。 客席が、誰だあいつって注目を奪ってしまうことなんて、メインキャストが気分を害してしまう。 彼が気分を害さないように、しなくちゃいけない。 でも、それでは私の物語は進まなかった。 だって私は一生懸命、自分の舞台を蔑ろにして、彼の物語がつつがなく展開するようにだ...

ソレは、本当のその人なのか

イメージ
絶縁となった友人がいる。 ある日彼女とのやりとりの最中に、LINEをブロックされてしまった。 私が一緒にいたグループラインから退室して、ブロックされて、謝っても聞き入れてさえもらえなくなったのだと、思い知った。 原因は私にあった。 私は相手に対して「失礼」だったのだ。 彼女は限界だったんだと思う。長い友人だったから、きっと無自覚な「失礼さ」は、他にもあったはずだから。 周囲は「…そうだったとしても、切るほどじゃないだろう」「そこまで過剰になることじゃないだろう」「意外ともう気にしていないのでは?」と言ってくれたけれど、私は自分が彼女に対して我慢ならない経験をさせたんだと、それほどの蓄積をしたんだと、自分を責めるしかなかった。 謝りたいと願いながらも、他にも連絡の取りようがあっても、決してできなかった。 彼女にもし謝罪をきいてもらえたとして、許してほしいだとか口が裂けても言えないと思った。 それほど大切な友人だったから。それほど、大切な友人だったのに自分がぶち壊した。 彼女のやり方を、少々乱暴ではないかと庇ってくれた人もいた。 でもそれは、私が引き出してしまった一面なのだ。 ただひとつの、一面にすぎないのだ。 私は、本来の彼女がどんな人か知っている。 優しくて正義感に熱く、真面目な人。 だから、そんな一面を引き出した私が、わるい。 対人関係において、そこにはAさんとBさん二人だけだとしても、実際には「Bさんの思うAさん」と「Aさんの思うBさん」、4つの人格が存在する。 実際のAさんがどうであれ、BさんにとってAさんはそれとは異なることだって、ザラにある。 誰かにとっては、酷い最低の人間でも、他の誰かにとっては、優しい素晴らしい人間なのだ。 Bさんの思うAさんは、意地悪ばかり言ってくる嫌な人かもしれない。 でもAさんは、Bさんのことが大好きで、Aさんが危険なときに他へ注意を反らしてくれるだけなのかもしれない。 「どう見えているのか」は、自分だけのものだから、たとえAさんが事実親切にしているつもりでも、BさんにみえるAさんは意地悪な人のままなのだ。 ”意地悪なAさん”とは、Bさんだけのものだから、Aさん本人も他の人も、誰にも変えてあげることはできない。 Aさんの助言が、意地悪に聞こえるのはもしかすると、Bさんが素直に人の話を聞くことが難しいキャラクターなのかもしれない。 ...

憧れのやさしい伝え方

イメージ
人に向けている感覚で「好き」と感じるものの程度が、強くなると「推し」になる。 本当は恋愛で強烈に片思いしている時と、感覚は近いんだけれど、理性がちゃんと働いているから「推し」という。 「推し」はだいぶ最近の言葉だから、「憧れ」というほうがわかりやすいかもしれない。 で。「推し」ているお医者さんがいらっしゃる。 Twitterではお馴染みの病理医のヤンデル先生。 この投稿をInstagramで見る Ellie K(@j0shiya)がシェアした投稿 私は、どうしたら伝わるだろうと考えた時に言葉が多くなる。 注釈が多くなるのだ。 前提はこれで、こうで…ああ、そうそう。この言葉はこういうニュアンスで…。 誰かとけんかにならないように。 偉そうにって誤解されぬようにしないと。 " 伝える " ことは、伝わらない恐怖の経験が多くて、結構慎重になる。 ヤンデル先生は、 どうやったら、誤解なく、だれかを無意識に傷つけず、伝えられるだろう。 そういうことを、何年も何年も考えてきていた人なんだと思う。 医療にまったく知識を持たない私にも読める、身体のことや、エッセイ。 いろいろ、書いているけれどもどれも、どの言葉もユーモラスで、たのしくて、まあるい。 この人の考え方、伝え方を本当に尊敬している。 つくづく、憧れちゃうなあと思ったのは、新型コロナウイルスへのワクチン接種について、不安だと思う人からの相談になんと答えるか?という話題で 『不安だから打ちたくない』って言われたときの最善解は、『不安なんですね〜』しかないですよ 引用: 「ワクチン、私は打ちたくない」って友達に言われたら。 信頼への秘策は『タモリ倶楽部』? と答えていらした時。 ぜひ記事をみてみてほしい。 ヤンデル先生はどうやったらどう伝わるか、考えている。 私は先生の意見にオール賛成にはなれない。 西洋医学・現代医学と言われるものに、 わりと否定的な世界に立っているから。 でも、先生のお話は聴きたくなるから、ちゃんと聴く。 先生のお話は、言い聞かせようとしていない気がするから。 言いくるめて、言い聞かせて、ってしない気がするから。 ぼくたちの考えは、こうなんです。と、ただ伝えている。 たんたんと、感情はなくて、でも熱意がある本物の真摯さが伝わるから。 だか...

やらせてほしいこと

イメージ
ずっと、「お役目」が知りたかった。 魂は目的を持って、この地に訪れ、肉体を得ると聞かされて育ったから。 でも、それを聞こうとすると、これまでどんなヒーラーやサイキッカーも具体的なことは濁して、「なんでもやれるよ」「好きなことができるよ」と言う。 最近やっと、そう言うならそうしよう。と何にも考えないで、それで富や名声がえられることがなくっても、好きなことを好きな程度にやろうとこころに決めて、自由に振る舞っていた。 自由に。人の目も憚らずに。ときにいっちょかみ、ときにディープに、好きな程度に。生産性がないことも。 最近はそれが、人をたすけるドクターたちだったり、医療のことだったり占星術、ハーブ、ひとをを癒すもの。 八坂神社につくと、東の立派な門をくぐりはじめに目に入るのが「疫神社」。 蘇民将来命様が祀られるお社で、「人のこころに現れる、不安や恐怖を祓うおしごとだよ」。 それが、やってほしいことだと、言われた。 それは、決して何か資格を得て人に直接触れることではないかもしれない。 それは、決して立派な社会の役に立つことには、ならないかもしれない。 それは、決して私の功績だとはならないことかもしれない。 それは、決して私が、社会で富や名声を得るものではない。 それでも、それは私の「すきなこと」。 1月17日に、師であり、魂の育ての親のひとりである人が、 …貢献、使命、天命と、私たちの魂の目的が変わっていく仕組みがあると、言っていた。 順番に、さまざまな要素が集約されていって、最終的に固まって、一つのものになるのだと。 いまのこれが、使命や天命まで言えるかどうかはわからない。 でも、「すきなこと」が集約されたそのお役目は、たしかに私のやりたいこと。 それやりたい、やらせてください。 そう言えたから、今、とっても、ワクワクしている。 Thanks to Korney Violin @reka for making this photo available freely on Unsplash 🎁

まだベンチを温めている

イメージ
占星術と、自分の人生の歩み方を観察すると、なるほどたしかに合っている。 いま、私のモードは「振り返り」で、今まで自分が何をしてきたか、何を好んできたか、とどのように生きて、どんな人間を育てたかを振り返っている気分だ。 そんな中で、自分は一体何をしていたか。 一生懸命、立派なセラピストで”在ろう”とした。 「グリーフケアセラピスト養成講座」というものを受けて(今は団体名も変わり、講座名も変わってる)、だれかを癒す側にと必死だった。 だって、私の仲間たちは立派にその役目を果たしていく。 自分のサロンを開いたり、仲間をサピートする役割を得たり。 でも私は、社会的にみても未熟なままで、焦ってばかりで空回っていた。 この間久しぶりに”みんな”の居るところに参加して、話していて、やっと意味がわかった。 みんな年上ばかりだ。親しい人たちなんて大抵10〜20は上で、そうなってくると結婚して子供も自立してたりする。 もちろん、子育て真っ最中の人もいる。 私は必死に、そういう人たちと肩を並べようとしていた。 でも良く考えろ。 10〜20という物理的な年月は、縮められるわけがない。 たとえ、「魂年齢はババア。同い年」と言って一緒にはしゃげても、その肉体が蓄積した経験は縮まらない。 そのことが、私はわかっていなかった。 私だってすごいことができると奢っていた。 でも、師匠は自分と同じ歳の頃、何をしていただろうか。 みんなは、なにをしていた? そう思えば、私がその場にいることは、みんなと肩を並べるためではなくて、 私の未来を見せてもらっているんじゃないかと、思いはじめた。 当然、この神秘的な精神世界が、”良いものだ”という前提があって、こんなことを言うのだけれど。 現実逃避として、言い訳として使われてしまう偽物のスピリチュアルではなくて、 「どう生きるか」に向き合う、本物のシコウの世界。 スピリチュアルは現実を生きるためのものだと、私は信じているから、こんなことを考えている。 だからそれは、男女問わず、年齢問わず当たり前の分野であってほしい。 おそらく、そう思って、今最前線で動く仲間がいる。 私はまだ、その人たちが走っているバトンを、受け取るために 受け取って、まだ先へその先へと走り続けるために、体力をつけたり、走り方を教わったり、走る道について教わる。 時が来たら、受け取ると思う。 そした...

あまいわたあめに包まれるような

イメージ
頭を離れないことがある。 「あの日の君は、女性として一生で最も美しいと言われる瞬間だったんだと思う。そう確信するような表情とオーラを纏っていた」 婚約したと、恋人の隣で報告をした日のことをそう表現された。 ずっとその時の感覚を、意図的に引き出してみたいと思っていた。 それほど「美しい」と思わせる状態が、意識的にできたら撮影の時に使えるんじゃないかって。 ちなみに、あれを言った人に聞けば「安心しきっている?ように感じられた」と言っていた。 どういう状態を言うんだろうか…。 ある朝夢を見た。 彼と過ごした夢だった。その時の感覚は、たしかに言われたように穏やかで、安心しきった心地だった。 目が覚めた時、思わずもう一度夢の世界に戻りたいと思った。その心地よさに。 それでもベッドを出て、身支度をして、神棚に手を合わせる。 窓から差し込んでくる光がサンキャッチャーを通って、部屋の中に虹がゆれる。この瞬間がすごく好き。 ——と、ここでふと気づいた。 手を合わせて何も考えないで、目を伏せている時間と、 夢の中で思い出した彼といた時の穏やかな心地は、非常に近いのではないかと。 神棚に手を合わせている時、ささやかに祈る。 その時は、神様が実在するものとして話しかけている。そうしている間は、何もしなくていい。 ただそこにいて手を合わせて目を閉じれば、何もしなくても、生産性がなくっても、美しくなくても、そこに存在して良い。 あんまりそれが心地よくって、ずぅっと続けていたくなる。 それと、彼といた時は、似ている。 彼がいるから一生懸命にだれかと喋らなくていい。彼は私が必死にならなくても、傍から消えることはない。 ”愛されている”と絶対的に感じられる瞬間。 それは、神様から”愛されている”と感じるときと、同じだった。 もう少し、もうすこしで手が届く。 きっとこのことは、いつかもっと合理的な説明がつくはず。 私にならきっと、説明をつけられるはず。 Photo by Jonathan Borba on Unsplash