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「生き場」を失くさないために

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もうすぐ、スピリチュアルの世界にどっぷり入って10年。 大きなきっかけになったのは、人生で初めてできた恋人に捨てられて、もう自分が存在できる世界が—土壌が失くなってしまったのだと悲嘆にくれた頃に、心配した家族がセッションを勧めた…簡単に言えばそこから始まった。 今は、人のことにまで手を貸せるようになった。 私のように、「たかだか恋愛」で自分の生命に危険が及ぶ人がいる。 私たちはたかだか恋愛と言われ、笑われ、余計に傷つくことを察知して誰にもその姿を理解してもらえないのだと、より一層に絶望を増す。 でも本当に、私たちにとっては、愛する人との別れが、今生の別れなんて比喩では足りないほどに、生きることのできる全てが奪われてしまうような気になるのだ。 「生き場」を失うことになって、死しか考えられず。 どこで生きれば良いのか、どこなら生きて良いのかわからなくなる。 そうなってしまった時にどうすればいいのか そうなってしまうことを、繰り返さないためにどうすればいいのか 今の私なら、”自分がそうしてもらったように”、幸せに向けて導くことができるのかもしれない。 恋愛をすると相手を「生き場」にしてしまうんだと思う。 だから、恋人を持つとその人が全てで、失えばそれはすなわち「死」になる。 でも今の私は—恋人を持たない私には、何が生き場になっているのか… 混じりっけなしの、誰の意見も含まない、私だけが導いた選択。 ソレがあったのは、かつてパートナーになろうとした人に対してだけだった。 彼とのことについてだけは、誰の意見にも耳を貸さず それこそ、偉大なるヒーラーたちの言葉にさえも、当時私の絶対的存在であった叔母の言葉にさえも、耳を貸さなかった。 私が、ひとりで、決心したことだった。 「他の人があなたに用意されているって、理解している?」 —2018年メアリー・モーニングスター氏とのセッションにて それほどに、心血を注いだ”関係”だった。 とはいえ現実には、その関係は残らなかったけれど、それは真実ではない。 でも、それほどに心血を注いだというのは、それが私の「生き場」だったからだ。 それを失ったいま、「今の私の生き場」はなんなのだろうか。 自分で築き上げた—埋め立てた土壌というものを持っているんだろうか。 ずっと、表に出しきれず、それでも手放さなかったことがある。 「ヒーラーである」というこ

たとえば平安に書物をするように

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生粋のネットっ子なので、SNSが手放せない——その筈なのに、そっとあえてその喧騒から距離をとって、田舎町の駅に降りた時のように、ふうっと息をついて自分の世界だけに入る。 駅に着く頃には、車内にぎっしり乗っていた人たちはすっかりまばらになっている。 たとえ、賑やかな人が何組か一緒に降りても、私の帰路の途中でみんないなくなる。 顔を上げたら黒い空に黄金の月。黒い雲がどんより、日本画のよう。 時々空は青っぽく、宝石を散らしたみたいに星が並んでいて、自宅の前にまで来ると視界の殆どを星空だけにして、包んでくれる。 仕事を終えて、ややふらつき気味に人混みを歩く時、楽しそうだな、誰かといるのいいな、と寂しくて心がくさくさする。 でもこうして駅に降りたところで、私だけの世界が広がって、すっかりご機嫌になる。 日の下で、人と触れ合い大騒ぎして楽しむ私もちゃんといる。でも、一日の半分は、空想の中を歩き続けるひとりの私がいる。 そういう意味で、帰るまでに人がフェードアウトしていくような、家に着く頃には人影もなく、家の中も早々に寝静まっている生活は、私にはちょうどいいらしい。 Photo by Ganapathy Kumar on Unsplash

結婚の儀式を遂行する司祭

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お勉強中の占星術には「サビアンシンボル」というものがある。 私個人のホロスコープで、象徴的なサビアンシンボルのタイトルが「結婚の儀式を遂行する司祭」。 まさに自身の職業にダイレクトに関連する。 街でスカウトされて、事務所に入って最初の仕事はたいていブライダルフェアのモデルだ。 そこから今の仕事に流れ就いた。 誓いの場を、ハレの日を創り上げ、のこしておく。 いつも、仕事楽しそうですよね と周囲に言ってもらえるのは、新郎新婦からいただいたお手紙やプレゼントを嬉々として報告するから。 私たちはウェディングプランナーではないため、新郎新婦から懇意にしてもらえることは少ない。本来は。 この仕事を始めた頃は、次から次へとベルトコンベアのように打ち合わせをしていた。 結婚式のBGMをただ、たんたんと「何が使いたいですか」「どの部分で使いますか」ときくだけ。 なんなら、新郎新婦が書いてきた用紙から、自分たちの作業しやすい用紙に書き写すだけ。 それでも、そのなかでもごくたまに音楽の趣味や、そのほかの話題で盛り上がる。 こだわりたい人は、たくさん要望を言ってくれる。 それを叶えるためにこちらの譲れない部分とうまくバランスを取れるように、導いていく。 「話わかるなぁー!」 「そうなんですよ!!」 思わず大きな声でそう言ってくださった人たちの笑顔が、今も忘れられないし、誇らしい思い出。 そうして時々、挙式の後に「メッセージ預かってます」「お菓子預かってます」と何かプレゼントをのこしていただいたり、「一緒に決めてもらったあの曲のこのシーン、最高でした!」とメールで写真を送ってくださったり。 すごく、すごく稀にそうした贈り物をいただいた。 たった一回。顔を覚えていないかもしれない。けれども、そのたった1時間を覚えていてくれて、同じ気持ちにしてくれるた。 その希少な贈り物が、心の支えだったけれど、終わりが永遠に見えないベルトコンベアは、十分に心を蝕む。 どんどん余裕もなくて、心はぎすぎすしっぱなしで、人に優しくできないようになっていった。 耐えかねて、総合演出の世界にやってきた。 そこはベルトコンベアの前にある椅子からは、いつもキラキラと光がみえていて、憧れた場所だった。 音楽だけではなくて、もっとたくさん、もっとぜんぶ。 量産ラインから、アトリエメイドの世界へ。 責任というストレスは以前より増

ファッションとの距離感

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最近知り合ったばかりで、はじめて顔突き合わせて話をした日に 「服が好きなんですね!」 と言われて、生まれて初めてそんなことを言われたなぁと。 私は”服が好きな人”ではない…そのタイトルは違和感があるなあ…。 むしろあなたの恋人に「お前の昔のファッションマジ不安やった」と言わしめた過去があるんだけどなぁ… 何が起きたんだろう もともとは、自分で選んだ服を買うことができなかった。 洋服屋さんを除いても、欲しいと思う服はない。 いいな、と思ってもそこについている値札をみて、そこまでは出さないなぁと引っ込める。 かといってファストファッションは思うようなものがなくて、結局何年も同じものを着続けている。 今も「この靴よく考えたら中学生から履いてないか」というものもある。 けれどここ数年で購入した洋服も、ファッション小物も急に増えた。 買えるようになった。 お金を使う優先順位が異なる件はともかく、自分で選んだ服を購入すること、身に付けることに途轍もない抵抗があった。 これを買って着たら、なんて言われるだろう…。 「そんな安物着て」「なにそれ変」「胴長が余計目立つで」「露出が多い、やらしい」 下着の色一つ、好きな色を身につけていたら 「なにそれ、いやらしい」 下着さえ、レースも何もないシームレスなデザインかつベージュの下着しか選べなかった。 見つかったら何言われるかわからない。 だから彼女が「これいいやん、似合うし買えば?」と言った服しか買わない。 「そんなん買わんでいい。私が持ってる」 と言われたら買ってはいけない。着ることは永遠にない。 「あんたこれ、着るやろ」 と渡された彼女チョイスの服と、彼女の若い頃(細くてグラマラスで私なんかよりずっと美しくてモテた頃)のお下がりが増えていく。 出かけることになった時は、たくさん服があるのに「着たい服」はなくて、イライラする。 ツアーに行く時は「ツアーはこういう格好をするもの!!」と彼女の定めたドレスコード。 こうして思い返せば、私のファッションは彼女のドレスコードに定められていた。 だから、人からどう思われているかが徹底的に嫌で、そういった現実世界と引き離して”目に見えない部分”をみて接してくれる人たちとしか、関われなかった。 彼女との物理的な距離が生まれると、彼女という存在から解放されたようだった。 もう出くわすこともないから、好き

この身体がきれいだと思えないとき

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「スタイルいいね」 「十分細いですよ」 褒めてもらえるのは嬉しいけれど、なかなか納得はいかない。 「あの人…痩せ方まずいですよね…」 うん、そうだけど…それはきっとさ—— モデルという肩書きを、プロフィールに書かなくなったのにはちゃんとした理由があって、誰かの表現に一役買うことは好きでも、”モデルらしくあらねばならない”ことが嫌で 「ふーん、モデルって言ってもこの程度じゃん」 と分かりきったことを人に言われるのがすごく嫌で きっとそう言われる・思われると怯えている時間が辛くて 書かなくなった。 でもモデルのお仕事は、最近は楽しい。 ”モデルとしてモデルのお仕事をする”のではなくて、”『私』がモデルのお仕事をする”と解釈するようにしていれば、心は軽くなるから。 だって私は、決してモデルなどと名乗ってはならない醜いものだから。 もともと、骨格なのか体質なのか、典型的な洋梨体型に陥る。 気虚体質で、体力もないから運動が続かない。 もちろん、自分の中で理想の体型があって、そこに近づこうと努力もする。 でも一方で、細くて羨ましい人を見ていたら 「こんなに痩せてちゃ、使えないんだよね」 という言葉が聞こえてきたこともあって、やりすぎちゃダメなんだ、とも理解している。 ただやっぱり、そういうのは、 痩せなくちゃダメで でも、モデル以外の仕事してたらそんな余裕なくて でも痩せなくちゃ、使ってもらえなくて 使ってもらえなかったら、役に立たなくて 役に立たないから、愛してもらえなくて と、ひどいループに落ちそうになる。 事務所に所属していた時はこのループが酷かった。 ただ、あるきっかけで事務所を辞めて、自動的にこのループからは一旦離れることができた。 離れただけなので、根本解決はしていなかった。 でも今はこのループにはハマらない。ハマっても、2周目くらいで抜け出す。 「どんな自分の姿も美しい」というボディポジティブの合言葉は結構無意味だ。 自分に対して求めている「美」がある限り、”どんな自分の姿も”とは容易に口に出せない。 周囲にどんなに「あなたは十分美しい」と真実の言葉をかけてもらっても、本人が「いや私のモノサシでは足りんのよ」と思えば終い。 だから私の場合は、”どうにかしないといけない”のは「自分を認めること」より「自然に在るがままの美」を知ることだった。 手を加えていない、自然な