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3月, 2021の投稿を表示しています

「書く」ことについてのどうでもいい話

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ブログでも、noteでも、定期的にスケジュールの中で「書く時間」をとって行える人ってすごいなぁと思うのです。 私の場合は思いつきが基本で、頭の中でそれなりに長いこと「考え」が居座った時に、それを言語化していきます。 そもそもが話すことも、書くことも、考えることも、言語化が大好きなので、仕事でごく稀に発生する文章を書く系統のことをよく引き受けます。 式場のホームページにある誰が見るのだかはわかない「スタッフブログ」は、各セクションから記事が寄せられていて、うちのセクションでは私の仕事になっています。 しかしこれがつらい 業務中に書くわけなので、時間を割けないし、思い立った時に書けない。 書けるようなネタもない。披露宴の演出やBGMについて書こうにも、他のセクションの人も書いていて、もうネタ被りがひどい。 そのうえ「そういうもの」といえば、そういうものなのですが、ブログなんてSEO対策のためにコンテンツをアップしたいだけなので、ほかの記事は3連くらい連ツイしたツイッターぐらいの文章しか書かれていない。 情報量がインプットもアウトプットも滝のような私には、そんな短い記事が書けない。 毎月提出期日になると、文句を口からラジオのように垂れ流しながら、何かしらの記事を搾り出します。 ただ、ある時から開き直ってアホみたいに長い記事を送るようになりました。 自分のブログを書いている時と同じように、徒然なるままに。 なので、私の書いた記事だけなにか異臭を放っています。 異彩ではありません。 たまに 「わりと気に入ったから自分のブログに載せたいなこれ」 というときがあります。 そういう時は、先に自分のブログでネタを使ってから、送ります。 まあ、「どういう人が読むんだろう…」「なんのためにブログなんだろう」という疑問を抱いたままなので、本気で自分のブログとの差異がないと思っているのですが。 Photo by Ben Kolde on Unsplash

「本質」へ一歩

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昨年の今頃、挙式を挙げた…まだ迫る影を楽観視していたころの、日常最後の挙式となった新郎新婦様と先日お会いしました。 そうして、改めて新型コロナウィルスが現れてから一年経っているのだなと実感します。 いつもなら、何気なく去年と今との変化をふんわりと感じさせるだけのものが、新型ウィルスのおかげで、どことなく変化した物事をはっきりさせている気がします。 それは、社会にとっても、個人にとっても。 2020年の3月なんて、誰も今日の自分を想像なんてできなかったはずです。私は微塵も想像していませんでした。生活も、心の内のことも。 それはちゃんと変化の波に乗っかっている証拠なんだろう、と少し安堵するし、取りこぼすことなく全体が変化していく面白さを体感します。 感染者増減の波に合わせて、ものごとは決断を迫られ、常に浮き沈みをしている。 結婚式をどうしようか、と悩まれる新郎新婦様達をみているのはやはり心苦しいです。 常日頃から、結婚式・ご披露宴にまつわる決断に同席し、アドバイスし、決断することを促す中で、この準備の時間は「人生観」—とでも言うのでしょうか、これまでの生き方、思考の仕方、人との関わり方などがつまびらかになり、この「人生の晴れの日」をきっかけに変化を起こしたり、見つめ直す時間になる。そんな風に考えていました。 とくに家族仲や親族間の関係の様相は顕著に現れますし、ものを決める時の癖などは「一生に一度」という呪いの言葉が惑わせたり、むしろより研ぎ澄まされたり。人それぞれの反応を引き出します。 なんとなく「結婚式がどのようになるか」は、その人の人生観を表し、そしてそれから先歩んでいく道を、どのように進むかの指針になっているのではないかと考えるのです。 だからこそ「人生の晴れの日」である当日よりも、そこにいたるまでのプロセスを重視しているのですが、最近はその中でより人々が自身の中にある「真実」に至れるようになってきたな、と感じます。 昨年の最初の緊急事態宣言のなかでは、みな突然のことで混乱しながらも「まずは延期だ」と日延べをしていました。 以前までは、それほどにこの晴れの日を迎えることが当たり前で、絶対的でもありました。 日延べをして(でも)、いずれ行うもの。 だれもがプロポーズをされたらゼ●シィを買って、式場を選んで、ドレスを着て親に手紙を読む。 それが「当たり前」で「普通のこ

開示請求されたら見せるんだろうけど

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仕事している時の自分は偽りの自分なんだろうか。 占星術はまったりだらだら独学中なもので、自分のことすら深くは読み取れない。それでも日々新しく覚えたことを元に、もう一度、今一度と自分の出生図を眺める。 どうやら私自身を表す惑星(太陽)と、社会での現れ方を示すところ(MC)が、ギクシャクしている。 単純に読み取れば”本質的自己”と”仕事・社会での自己”との間に乖離が存在する、と。 そうなんだろうか。 実際今のところ私はのびのびと仕事をしている。 決して稼ぎは良くないし、恵まれた環境のおかげで成り立つレベル。 それでも仕事自体は好きなことで、楽しめていて、職場環境も人間関係にも不満がない。(寒いわ!風邪ひく!くらいか) お客様とおしゃべりするのが大好きで、それはそれはのびのびと働いている。 その姿は自己との乖離があるのだろうか。 仕事、に限らずパブリックな—表面的な公共性の高い場において、私の人物像は(自認している限りだけれど)、皮肉屋で、文句が多くて、感情の起伏が激しい人物。陽キャっぽい。 もっとあるけどまあここは端的に強調されるところだけ。 でも、プライベートな場においてその限りではない。 もうすこし思慮深いし、感情は案外穏やかにしている。根っからの陰キャ。むしろパブリックな人物像とは真逆のキャラクター。 そう言う意味では、乖離しているんだろう。 もちろん、両者間は断絶しているのではなくて、 仕事仲間の中でも、親しい人にしか話していないことがあったり、チームには話すけれど別セクションの人には話さないことがあったり。 パブリックな自分とプライベートな自分。その分量にもグラデーションがある。 とはいえ、両はしは真逆でさえある。 それは確かに本質的な自己と、仕事・社会に立つ人物像との乖離だ。 たとえプライベートな関係とされる親しい友人であっても、”パブリックな自分”の方が濃度が高いこともあるし、”プライベートな自分”を特別隠しているわけでもなかったりする。 それでもその濃淡は、無意識のうちに使い分けられている。 最近ちょっと特定の場所だったり(以前書いた「あたらしいSNS」とか)、特定の人には意識的に(有意識的に)プライベートな自分を表すようにしていたりする。 意識的になると、実際こんなに乖離しているのかと実感する。 まあどちらも、嘘も本当もない、私自身であることに変わりは

魚座新月『溶け合って夢』

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夢をみる そこは理想の世界で 誰かが私に笑いかけてくれる "誰か"を私は知っているはずなのだけれど、顔が見えなくて名前も思い出せない。 顔が見えていないのだけれど、優しい表情を向けてくれている事はわかる。 ねえ、以前お会いしたのはいつでしたでしょうか 彼は微笑み(そのように感じるだけで、やはり見えない)ながら 夢の中で、お会いしました と。 不思議なことにことにホロスコープを除いて浮かぶのは、ずっと夢のループのようなのです。 夢はまた次の夢…いえむしろ夢の中の夢。 ずっと取り留めのない柔らかな世界が広がります。 夢見る惑星と心穏やかな月 そして愛の惑星とが魚座の中で夜のお茶会をはじめて、それをそっとそばでニコニコと太陽が見守っている。 魚座の宮と言われて思い浮かぶのが、シルクモスリンがたっぷりと天蓋から降りてくる、ふわっふわの可愛いスペース。 フワフワのクッションと、甘い毛布。もちろん羊さんのクッションも。 月が少し幼なげで、でもお姉さんたちと話すのが嬉しくて、そんな楽しそうな月を見ていて嬉しい太陽のお兄さんなのです。 以前にどこかで残したかも知れないビジョンなのですが、月と太陽のふたりはいつも太陽が屈託のない月の様子を嬉しそうに見守っている姿が、私の月と太陽です。 もうすこしだけ、と終わってしまわないようにと唱えてしまう。 酔いが回ったような、ふんわりとした世界の中で思った心は言葉よりも早く浸透していく。 この心地の良い小さな祝宴が、いつまでも続けば良いのに。 それでも日は昇らなければ。 わたしの手を引いて、行かなければいけないよと切なそうに笑いかける。 次にここを訪れる時、誰がこの席に座るのだろうか。 また会いましょうねと、交わすけれども。同じ時はなく。また新しいあなたに会うのでしょう。 夢のループは無限に続きます。 そしてループなので同じものを繰り返すように感じるのですが、それは決して2度と会えない一度きりのもの。 世界が変わらずとも、「2度目を経験するあなた」と「初めてだった前回のあなた」では見ているものが同じようで違うはず。 はて、世界が変わったのか、あなたが変わったのか…。 どこが上でどこが下なのか。 いつが先で、いつが後なのか。 唯一確かなのはイマココだけ。 ああそれもまた、瞬きよりも先に変わっていく。 唯一確かなのは変わり続けてい

実態を実体なしに

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「本当の自分ってなんだろう」 という問いは、いつでもどこでも目に入るし、誰しもが一度くらいは考えたことのあるものでしょう。 「本当の自分とは」「本質を生きるとは」 言葉が深まるにつれ、深みにはまって見失うことさえありますが、公共の場とプライベートの境界線が薄まっている今は余計にそう感じるかもしれません。 人との距離が近づきすぎて、自分と他人が同一化しすぎている気もします。 みんな「他人を思いやりすぎ」て、自分は思いやらないのです。 そして良くも悪くも現実と仮想現実(ネット)も、境界線がとろけていく。 twitterやInstagramといった大手SNSはネットの海の中でありながら、すでに実社会の自身と直結しその繋がりはリアルな(実際的な)繋がりがほとんどになっています。 テクノロジーの発達は喜ばしいのですが、複雑な心境です。 何年も前、それこそ10年以上前のmixiが日本で流行する少し前は、あくまでネットの中は実社会とは隔てられていて、虚構の世界でした。 それが今ではその隔たりはほぼ溶けきってしまったようで、たとえ偽名や偽のイメージを立ててもそこには実在する存在があり、攻撃されれば実際に打撃を受けることになります。 そんななか、あたらしいSNSが登場しているようです。 そこはまるで、昔懐かしい静かなネットの海の中のようなのです。 深海のような、真空のような静けさのなか、人々がひとりごとをこぼし、時折それにサインを送るような。 設定できるのは、名前を自由にすることと、自分の紹介文くらい。 アイコンは限られた中から選んで設定して、他のSNSとは連携することはありません。 アプリ開発者側からも他SNSのIDの情報交換などは禁止するとアナウンスされています。 実社会から、切り離された世界です。 そこでは、友人をそのSNSに誘ったとしても出会えるかどうかはわかりません。 アカウント同士の意図的な検索はできません。 それ故にでしょうか。普段の自分では表に出せないような、秘めている自分の言葉もそこに立たせることができるのです。 悲しい時に悲しいと言い、辛い時に辛いと言い、嬉しいことは噛みしめるように嬉しいと言う。屈託のない呟きが流れてきます。 「彼氏がかっこいい。しあわせ」とか「恋人と別れた、つらい」とか。 大手SNSでは揶揄されてしまいそうな、それでもその人が今抱きしめている感

海と白いシフォンと音楽

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Facebookを見ていると”角さん”のメッセージ投稿が必ず目に入る。 沖縄のマスターヨーダ。カウンセラーの中川角司氏。 魂の目的を模索する人たちを応援するいつもの投稿が、今朝はとくに目に入っていろんなことを感じさせてくれる。 今日は「愛について」の気づきについて。 「愛とは」という話題は、多分おそらく私にとっては恋愛のそれに限らず、すごく重要な、知りたい事柄なのだと思います。 角さんに質問をしたことがあります。 「愛しているのに、愛のはずなのに、一緒にいられなくなりそうです。 私のこれはもうただの執着(エゴ)になってしまったのでしょうか」 愛かエゴか この命題を常に問い続けるくせがついています。そんななかで、当時「きっとこの人以外に愛せる人なんていないのだ」と思っていた人との別れが近づいていて、余計に知りたかったのです。 今自分が抱いているものが、彼との時間が作り出した執着でしかないのか、本当の愛なのか。 彼のために、と。彼といるためにと、努力しているようだけれども 「そう在りたいと思っているのか、そう在らねばと思っているのかです」 一瞬考えてしまって、口をつぐみかけて「そうか…」と呟いて、言い訳を続けた記憶があります。 「そう在らねば」と、努力し続けてきた自分のための言い訳でした。 彼から別れを告げられて、全てが終わりへ向かう数日前のことでした。 今日の角さんの投稿が、あの日のことをもってきたのですが、映画のワンシーンかのようです。 真っ白の砂浜と、青い海。ウェディングドレスとシャツのカップルがセルフ前撮りをしている姿。秘密の場所へむかう道中。 あの日、みんなで歩いていたのに、二人でその話をさせてもらえたのはきっと意味があったんだと、ハートが引き裂かれるような感触の中で角さんの言葉に思考を巡らせていました。 その日から一年もしないうちに、私はケロっとしていて、 去年より今年が、昨日より今日が、今が、一番幸せだ などと言えるようになっていました。 完全に、「彼とのストーリーは終わった」のでした。 だって、あの頃の自分は「そう在らねばならぬ」だったし、それはあの瞬間に即答できなかった時点で、わかっていたことでした。 ただ、今日は「終わった」物語を、 ああ終わったんだね。 と裏表紙を見た思いでした。 「愛しましたか?」については、強い思い込みの中で愛しているんだという