「イマドキ」にアップデートした実写版『リトル・マーメイド』
実はとくべつ興味がない「ディズニー実写化シリーズの波」
Disney+があるから、劇場にいくほどのことは基本ないと思っていたのに、なぜだか劇場に観に行こうと決めていて、友達を誘ったら「公開初日行けるよ!」と初日に行くことになり…。
たいへん、たいへん満足をいたしました。
自分の「よくわからん勘」が誇らしいほどです。
しかも直前に聴いたPodcast(TBSラジオ)『アフター6ジャンクション』で
特集:「千年超えた今だからこそ面白い!現代人ならではの読み方で名作古典『源氏物語』をたのしもう!特集」by山崎ナオコーラさん
を聴いていたのでより一層染みた…!
是非合わせてお聴きください。
アニメ版は1989年公開。世界中がしってるアンデルセン童話『人魚姫』がモチーフ。大筋にネタバレも何もないかと思うのですが、実写版オリジナルな展開などが、なによりも素晴らしかったので必見です。
その辺も感想として触れていきましょう。
ここまで大筋を理解し切った上、制作スタジオまで同じとなると「一体どんなふうにあのシーンを描くの?」「あの歌はどうなる?」など比較しながらしか見れない。
前半は姉妹のアンサンブルが一切なくなり多少寂しかったり、
セバスチャンのカリブ出身みが無く、Under The Seaもそういう意味では方向性が異なって…うーん。
でもね。
全て見終えて、納得しかないのです。
アニメの「リトル・マーメイド」が好きで、同じでないとと感情がざわめくのなら、アニメ版だけを見てこの実写版は存在しないことにして良いと思います。
これは2023年、限りなく現実化という実写化を完璧に行った映画でした。
ヴァネッサは魔法でエリックを操ったのか?
話すことのできないアリエルに心を惹かれ始めるエリック。アリエルを見守る周囲はこの調子で行けば3日目の日没までにキスできるかもしれないと期待するが、それを阻むべく美しい娘に姿を変えた海の魔女が現れる。
彼女はアリエルから「脚」の代償に預かった声をつかって、エリックの心を捉える。
物語のハイライトのひとつであり、コアなファンが大好きなキャラクター「ヴァネッサ」登場となるシーン。
私はこれに付随するシークエンス、実写版においては「ヴァネッサは魔法でエリックを操ってはいない」と観たのです。
アニメ版では、ヴァネッサ(アースラ)はアリエルの声を魔法に乗せて、エリックを完全に操り人形にする。歌声の魔法はオレンジ色の光になって、エリックの目を奪うのでまさに「虜にする」魔法のような描写になっている。
実写版でも、声を聞きつけヴァネッサと出会ったエリックのその瞳に、オレンジの光が「宿ったようにみえる」。が、これを「あくまで彼の目に入ったのは”歌声”である」という印象をうけたのです。
というのも、アニメ版に寄せるのであればCGでもっとエリックの瞳にオレンジの光を落とし込むなり、ヴァネッサのペンダントからオレンジの光が流れ込むなり、描きようがあったはずだと思うのです。
でもそうではなく、あの時エリックの目にあったオレンジの光は、あくまで薄闇のヴァネッサを写すその瞳に「光り輝くペンダントが強調されていた」だけだったように見えた。そのくらい控えめな描写だったと記憶しています。
アニメでいえば、「エリックは悪い魔女の魔法にかかってしまった!」とはっきりさせたいシーンだったのに!
そしてそのあともエリックは、節々に正気を保っている様子があるのです。
女王に彼女のお披露目をしたいと、ヴァネッサを紹介している時も自分は一体何をしているのか、と言葉を濁します。
グリムズビーに尋ねられてもハッキリしないのです。
ヴァネッサも黙っているわけではなく「私たちの意思なんです」と、エリックの迷いを悟らせぬよう被せて発言したり、その後のパーティーでも周囲へ根回ししたりと、ステレオタイプなゴリ押し女の振る舞いです。
極め付けは、アリエルがヴァネッサからペンダントを奪い破壊した時。
アニメ版では壊れたペンダントから、”歌声”がアリエルに戻るのと同時にエリックの目からも魔法が解かれて”オレンジの光”が抜けます。
実写版では、そのシーンではエリックに変化はありません。
ただ、その声の持ち主がアリエルであったという事実を目撃するだけです。
この一連のシークエンスにおけるエリック。なんと「ありがち」な人間模様なことか!
わかりみ〜〜〜!
と、この映画における「リアリティ」に感激しました。
ヴァネッサと遭遇する前、アリエルと城に戻ったエリックはグリムズビーとのやりとりがあります。
ここでエリックは、非常に人間らしい葛藤に言葉を詰まらせ、年長者であり保護者でもあるグリムズビーが優しく助言を与えます。
「あの歌声の持ち主こそ、運命の人だ」
その理想のために、全ての馬車をつかって捜索隊を出して探していたエリック。周囲から「それは幻ではないのか」「命の恩人だか知らんが、ご執心っすなw」といった嘲笑の空気を少なからず感じていたはずですが、自分を信じて我を押し通していた。
なのに、目の前に突然現れた身元不明の話せないアリエル。名前だってやっとなんとかわかっただけ。そんな彼女に心惹かれ始めている…。
自分が一番、そのジレンマに引き裂かれそうだったはずです。
もし、この先理想の運命の人が現れるとしたら?
目の前の心惹かれる相手が、そうでないとしたら…?
でも、確かに惹かれている。
彼はとても揺らいでいた。過去に確信した自分のことさえ、信じられなくなっていた。
そこに、歌声の持ち主が現れては、「彼女がぼくの運命の人のはずだ」という自分で自分にかけた呪いに縛られる他なかったはずです。
だから彼はただ口籠る。なぜこんなふうに話が進んでいるのか、と自分の道を見失う。
それでも、彼は人々が集まる中でも「大事な時なのに、アリエルはどこに行ってしまったのか?」と彼女を探します。
魔法にかかっていたなら、アリエルを探すはずはありませんよね…。
このエリックの葛藤、多くの人が共感したり想像できるものではないでしょうか。
「これよりもっと良い選択があるかもしれない」
「運命の人と出会えるはずだ」
希望を持つあまり、今目の前にある人や選択肢に納得できなかったりハナから蔑ろにしたり。「これがそうだとしたら…?」と悩んだり。
「いや宣言した手前…」「だってあの時は真実だと思った…」
結果的にそうでなかった時、プライドが傷付いたり過去の自分を嘆いたり。
私たちは真実を追い求めるときに、見落としてしまうのです。
今、この瞬間。目の前にあるものこそが真実であり事実だということを忘れるのです。
過去も、未来も、「今この瞬間」には関係がないのだということを。
グリムズビーのエリックへの助言が胸に刺さります…。
「王子様」ではなく「エリック」。「プリンセス」ではなく「アリエル」を描く
先のエリックの様子など、他にもアニメ版と異なり実写版では「エリック」という人物についての描写がとても増えています。
アリエルが初めてエリックを船で見かけるシーン。
ここでは彼がなぜ、王子という立場でありながら船員たちと肩を並べているのかという背景が説明されます。
彼の出自や、アイデンティティ、キャラクターが説明されながら
「王族がなに船乗りしてんだよ」
という点についてもきっちり説明してくれています。
ちゃんと「あなたは船員たちと一線を引きなさい」とグリムズビーも苦言を呈しています。
エリックという人物像が明らかになるだけでなく、アリエルがエリックの何に心惹かれたのかが説明されたのです。
これはエリックを詳細にしていくことで、ルッキズムやディズニーがお伽話を扱う上で批判されてきた点を跳ね除けるものにものになっています。
また、アニメ版よりも増量した描写として、エリックがアリエルに興味を抱くきっかけとなるシーンがあります。
この「エリックとアリエルが心を通わせるシークエンス」は、「王子様とお姫様だから」という説明されなかった部分を、とても繊細に補いつつ、アリエルという一人の人物をきちんと描くことになっています。
アニメ版では、ただ父親に反発した好奇心旺盛な少女として描かれます。
ですが実写版では、エリックの持ち物に対してエリック自身も知らなかったことを教えたりできるのです。彼女が何もわかっていない弱いプリンセスではなく、ちゃんと彼女の中にある叡智があり、尊重されるべき人物だという描写にもとれます。
これはアンデルセン童話での「人魚姫」の印象や教訓に対して、大きな声で「現代ではそれはNO!」と宣言したも同然で、とても心強いものでした。
アンデルセン童話でも、それをもとにする童話でも、アニメ版でも結局のところ王子様は、声が出なくて、でもめっちゃ可愛い(魅力的)、言動がおかしい(人間のルールを知らない)少女に対して「哀れみ」「好奇の目」から側におきます。
しかしこの実写版は、とても上手に「哀れみから興味を抱いた」とされるシーンを回避し、アリエルと城を出て散策に出る口実をとても美しく塗り替えたのです。
こうした繊細な「心通わせるシーン」のおかげで、
エリックは決して「人魚の歌声」というものに惑わされたわけではないということ。ちゃんとアリエルという個を認識して、理解して、愛したということ。
アリエルにとっても、エリックが人間の世界でみた「自分が魅力に感じる人物」であり、憧れでは無く本当に愛していたということが強まりました。
作中で「セイレン」と「マーメイド(マーピープル)」が同一視される誤解がありつつも、実際に異なるものであることや、
歌声について「人魚の特権」という訳が現れるなど、特別視される背景を説明しながらも、ハッキリとこの二人の間にはそれらは関係がないということを描いていて、個人的にとても魅力的に感じました。
また、実写版ならではの展開となった「アースラを倒す」シークエンス。
大変驚きました。
しかしながら、この実写版アリエル——ハリエルのおかげで「プリンセスは守られるもの」という様々な角度からのステレオタイプは打破されました。
そして、戦いの末「エリック」か「トライデント」か。
どちらか一方を選ばせるわけではない描写も、これまたイマドキ!
また、彼女がちゃんと父親と向き合い、「パパの心配する小さな娘じゃない」という姿をきちんと見せつけます。作中歌詞とのリンクも感じられます。
これは『パート・オブ・ユア・ワールド』の2つめのリプライズでも、成長をきちんと見せていたので、この映画におけるもうひとつの見方「とある女性の物語」としても美しい描き方であったと感じます。
今現在の人のための「The Little Mermaid 」
公開前から、日本国内でも前評判は大変良くなかったように思います。
それはどうしても、アニメ版のファンにとっての「アリエル」を——『アニメ版を実写キャストで再製作する』を求めたからでしょう。
その視点で言えば、この実写版は「NO」と言われるはずです。
トリトン王の王としての威厳(というか暴君っぷり)はあまり描かれません。
カリブ海出身の宮廷音楽家「ホレイシオ・フェロニアス・イグナシアス・クラスタシアス・セバスチャン」はいません。
姉妹の歌はブロードウェイ版でさえ増えたのにありません。
それでも2023年の現在だからこそ、その存在意義が深まる素晴らしい映画だと感じました。
今現在に、世界が社会が抱いている問題を肌で感じて見聞きしている私たちだからこそ、この実写化の「成功」を感じられるはずです。
なぜ、すでに完成した作品を「実写化」としてリブートする必要があるのか。
それは、今を生きるわたしたちがこの「完成した作品」の時代にあった人たちとは、もう全く違う世界を生きているから。
映像として、最新技術で美しく見せ直したいから作ったのではないのです。
今回の実写化は、今の私たちにとっての『The Little Mermaid』として、大正解だったと思います。
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