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月夜は特別だということにする

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明日の夜明け前…4時16分ごろ、月は満月に。 きっとまた4時ごろだとしっかり明るい満月が見られるのでしょうが、今起きている時点で”見る”はなかなか難しいですね。 月が好きなので、満月も新月同様に嬉しい特別な日です。 そしてその特別さをプラスしてくれる人の記事を読みます。 ✔︎ ☆星言葉紡ぎ屋☆ 白い魔法使い (note) ✔︎ 連載「イナンナが語る ニビル星人アヌ一族の物語」 (ブログ) 前者は占星術師さん、後者はメッセージを下ろす系の翻訳家さん。 目に見えない世界、精神世界、スピリチュアル… これらに抵抗のない人向けでしかありませんが。 こういったものを読んで、勝手にワクワクしたり、ふむふむしたりする。 それだけで、今日が楽しく明日からが楽しみになる。 「目に見えない世界(スピリチュアル)を信じるの?」 と聞かれると、答えに困ります。 私にはこういった世界が 「あるということになっている世界」を生きている時間があるのです。 心が沈んでしまったときに、人は誰かと話したりカラオケに行ったりする。 気分転換。 それと同じこと。 もともと、ディズニーをはじめとした”ファンタジー”が大好きで、 ちょっと空想にふける時間が多くの大人より多くて、 その空想の深度が深いだけ。 自分以外の人には、いまのところこういう表現が 私の頭の中を伝えるのに的確なんじゃないかと思っています。 先日、鏡リュウジさんの『気質論〜医学と占星術の間〜』というオンライン講座を受講しました。 そこで紹介なさっていたのですが 14世紀に書かれた『カンタベリー物語』で (カンタベリー大聖堂への巡礼道中の宿で語られた人々の話をまとめた物語) 優秀な医師がいて、その人物が優秀な医師であることの理由として「占星術に長けている」という話があるそうです。 占星術はすくなくとも中世においては、 医学をはじめとする様々な学問に精通するひとつの「学問」だったのですね。 私たちがこの世に生まれ出たその瞬間の天体達が、 私たちの内面にも外見にも作用する何かを与えている。 そしてそれを読み解くことが、医療行為のうちのひとつの要素になる。 中世と今を比較すると 異世界転生でもしたのかしら!? と思うほど世界線が違うと感じる価値観の違いですね。 でも、占いが現実だった時代がある。 精神世界の事柄が現実だった時代もある。 これから数千年

頭の領域がいっぱいですデフラグを実行してください

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イラっとするときの自分を、解析すると ”脳の処理をキャパオーバーするとき” のようで。 たとえば、あれもやって…これもやって…と考えて、 ああこれもだ、あれもだ、と時間ないしなにかしらの制限に加えて タスクが増えて「予定が狂う」瞬間に むり!! と脳みそが叫んで、イラーッ!としてしまう。 平常時は、それも 「いや、これを何分で終わらせて、これは集中したら何分でいけるから」 と考え直せるのだけれど、そもそもその時点に至るまでに 何かしらの負荷がかかってしまっていて脳の処理スピードは限界にきている。 たとえば容量を蓄えすぎたiTunesが たかが楽曲検索に数秒かかってしまうときのような ちょっと無理して脳が働いているときに むりーー!!って脳が叫ぶ。 もうこんな日は、ちょっとのことでイラっとしてしまう 頭の中に溜まった断片的な情報だったり 蓄積された過重が 頭の8割くらいを越えると、もう次はそれをデフラグかけようにも数分では難しくて 今日はきっと一日中ちょっとしたことで怒っちゃうんだ と悟る。 だって、数分やそこらではこれは回復しない。 最近気がついたけど、鬱っぽい症状と似た状態の時も このイライラモードで現れる脳みその「むりーー!!」も こころはいたって平穏だったりする。 こころと頭は、確かに分け隔てがあるようだと感じる。 こころは平気なんだけど 反応として、イラっとしたり、泣き出してしまったりする。 本当に、体が勝手にそう反応する。 反射的に「きゃーーー!」って叫んだり 反射的に涙が出てきたりする。 だから、こころにばかり目を向けてきた私は混乱する。 なんでこんなに怒っちゃうんだろう。何に怒るんだ? なんで急に泣いてるんだろう。何が悲しいの? でもこう言う時、こころじゃなくて頭が問題なので そっちはからっきしなものだから ちょっと今、困ってる。 Photo by AltumCode on Unsplash

わたしのなかの「ちぃ」という存在

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高校生の頃のあだ名が「ちぃ」でした。 全く名前にも、何にもかすりさえしないこのあだ名の由来は、高校に入ってすぐのクラスメイトとの思い出から名付けられました。 なので、私は高校の間は"ちぃ"でした。 あ、『ちょびっツ』由来ではないとだけ、宣言しておきます。 "ちぃ"はわがままで、思ったことはそのまま口にする子でした。 ふつうなら、疎ましく思われてハブにされたっておかしくない。 それでも"ちぃ"の周りの人たちは、心根の優しい人ばかりで「まぁちぃやし…」と呆れながらもそっとしておいてくれたのだと思います。 本当に守られていたのだと思います。 人にも、環境にも…様々な条件が、様々な方面から"ちぃ"を守ってくれていました。 だから"ちぃ"であった頃は、甘えたで、自由奔放で、その一方とても素直な人物でいられたと思います。 高校を卒業すると、"ちぃ"のいた世界は無くなります。 そもそもが、学校という世界の中にあったので。 しばらくは、"ちぃ"もいたはずなのですが気がつけば、わたしの中から"ちぃ"は姿を消していました。 今の私は—自覚さえあまりなかったのですが—、あまえなどは許されなくて、弱みなど見せることなど許されないと思っている。 それは、人に頼らずに自立した女性でいなければならない、という価値観。 とくに、”男性にあまえてはいけない”という価値観。 例えばそれは、おおくの同性から反感を買いますから。 例えばそれは、社会的な依存ですから。 そうであってはならないと、どこかのタイミングで…何かに思わされていたようでした。 徐々にその価値観は「ガラじゃない」といった言葉が代弁するようになりました。 ですが、この1年ほどでまるで砂の城が溶けていくように、いろいろなものが私から取り払われていきました。 そのうちの一つがこの「ガラじゃないと虚勢を張る」ことです。 メタ的な女性像。 か弱く、男性に守ってもらうことで存在するもの。 どうやらそれは、わたしの本質から枝分かれしているものであり、わたしの中に"ちぃ"と名付けられている存在のようなのです。 "ちぃ"はディズニーのお姫様のような古典的な女