私はすっかりそのことに気がつくのが遅れた。
どんなに辛いことでも、「でも、魂的には良い学びだったから」と全てを『受容』しようとする。
本当に辛いことほど、そうやって片付けるほかないと思ってきた。今もまだ、そう想う。
誰かに、友人に、家族にそんな話をしたところで何も解決しない。「つらかったよね」という共感による癒しは、ありがたいけれど「ありがたい」と思わなくちゃいけないし、それでも何も現状を変えてくれない。それは私にとっては意味がない。
身体を抉られるような痛みは、そんな言葉で癒やされるわけがない。
そんなことよりもここまでのことが起きたなら、それ相応の学びと成長が得られるはずじゃないのかと——早く痛みを忘れたその先に立たせてほしいと乞う。
痛い時に痛いと言わず、イマの自分をおいて、乗り越えた先の結果ばかりを急いている。
それは、その様は決して「スピリチュアルな生き方」をしていない。
イマの自分は、傷ついて痛みを伴っている。
それがどのくらいの痛みで、何がどんなふうに痛いのか、誰かに話す必要がある。
——だって誰かに話すために、きちんと観察して、洞察を経る必要が生じるから——
痛みに気づかないふりをして、「これしきのことで」と血まみれになりながら反省文を書こうとすることは、決して自分を生きていない。
だからそれはたしかに「Unhealthyだ」。
Photo by Jonathan J. Castellon on Unsplash
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