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「自分最優先」ができるかできないか

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職場復帰。 お休みの間思う存分に遊んで、生活のリズムができてきた。きっとこの範囲なら大丈夫じゃないかと思ってた。 電車を乗り換えて、最寄り駅まで近づくにつれて呼吸のたびに耳の奥がゴオゴオいいはじめる。 身体の奥底に、重石が置かれたみたいに呼吸がしづらい。 ゆっくりと立ち上がって、階段はしんどくてエスカレーターまでヨタヨタ歩く。 結局、仕事に復帰はしたけれど、「しんどい」が現れるのは休職前と変わらなかった。 てっきり、超過労働気味なのが辛いのかと思った。 てっきり、その責任がつらくて、打ち合わせや現場を外れたら大丈夫だと思った。 お医者さんも上司も、私があんまり楽観的なのを心配して「少しずつね!」と念押ししてくれていて、よかった…。 時同じくして、周囲でも同じことをいう人がチラホラ。 同じように辛くなってきた人の言葉を見ていて、少しだけ視界が浮いたので、違った考えがうかんできた。 【仕事】はどうして人の心を忙殺するのか。 意味が重なりすぎている誤った日本語な気がするけど、あえてこの言い方で。 「仕事をする」ということは、相応にして「他者のためにすること」だ。 別に私は、あなたがDVDの作り方がわからなくても困らない。でも、教えてあげるのが仕事。 あなたがそうしたいなら、親に手紙を読むときに"エンダー"をかけてもいい。でも、いやそれ大サビうるさいし、バラエティみたいになるからやめといてっていうのが仕事。 「この仕事片付けておかないと、〜さん困るだろうな」 「このファイルコピーしておかないと、後輩にわるいな」 「人のため」ができない人は、会社で嫌がられるし、社交の意味でも【自己】や【自我】は優先度がさがる。 自分のためだけじゃないことを、頑張る代わりにお金で対価をもらってる。それが今の社会のキホン。 お家に帰ったら、一緒に暮らす人がいて 「ごめんね、あなたのために何もできてない」 ごはんつくったり、お風呂沸かしたりしてあげたい。 私もお風呂に入らなくちゃ。明日"誰か"に不快な思いをさせちゃうかもしれないもの。 一日24時間、その中でどれだけ「自分のためだけの時間」があるだろう。 なんだかんだ言って、「自分が気持ちいい」と気づいて選択できたら、それでいいけれど、全てが"誰かのため"ではじまって仕方なくそこで考えを終