実態を実体なしに
「本当の自分ってなんだろう」
という問いは、いつでもどこでも目に入るし、誰しもが一度くらいは考えたことのあるものでしょう。
「本当の自分とは」「本質を生きるとは」
言葉が深まるにつれ、深みにはまって見失うことさえありますが、公共の場とプライベートの境界線が薄まっている今は余計にそう感じるかもしれません。
人との距離が近づきすぎて、自分と他人が同一化しすぎている気もします。
みんな「他人を思いやりすぎ」て、自分は思いやらないのです。
そして良くも悪くも現実と仮想現実(ネット)も、境界線がとろけていく。
twitterやInstagramといった大手SNSはネットの海の中でありながら、すでに実社会の自身と直結しその繋がりはリアルな(実際的な)繋がりがほとんどになっています。
テクノロジーの発達は喜ばしいのですが、複雑な心境です。
何年も前、それこそ10年以上前のmixiが日本で流行する少し前は、あくまでネットの中は実社会とは隔てられていて、虚構の世界でした。
それが今ではその隔たりはほぼ溶けきってしまったようで、たとえ偽名や偽のイメージを立ててもそこには実在する存在があり、攻撃されれば実際に打撃を受けることになります。
そんななか、あたらしいSNSが登場しているようです。
そこはまるで、昔懐かしい静かなネットの海の中のようなのです。
深海のような、真空のような静けさのなか、人々がひとりごとをこぼし、時折それにサインを送るような。
設定できるのは、名前を自由にすることと、自分の紹介文くらい。
アイコンは限られた中から選んで設定して、他のSNSとは連携することはありません。
アプリ開発者側からも他SNSのIDの情報交換などは禁止するとアナウンスされています。
実社会から、切り離された世界です。
そこでは、友人をそのSNSに誘ったとしても出会えるかどうかはわかりません。
アカウント同士の意図的な検索はできません。
それ故にでしょうか。普段の自分では表に出せないような、秘めている自分の言葉もそこに立たせることができるのです。
悲しい時に悲しいと言い、辛い時に辛いと言い、嬉しいことは噛みしめるように嬉しいと言う。屈託のない呟きが流れてきます。
「彼氏がかっこいい。しあわせ」とか「恋人と別れた、つらい」とか。
大手SNSでは揶揄されてしまいそうな、それでもその人が今抱きしめている感覚たちが、純粋なままにあふれています。
そこでは強がる必要も、クールに装う必要もないのです。
人は互いを気遣うあまりに、違いを受け入れられないあまりに、互いに自分を装わねばならない。
マナーだとか、思いやりだとか、礼儀だとか。
だから恋人と別れて辛くても、「きっと次にいい出会いがありますよね」と強がる必要がある。
自分より辛い人は他にもいるからとか、考えなくちゃいけない。
「彼氏めっちゃかっこいい。なんて頭がお花畑ですね」と自嘲する必要がある。
他の人の目には、恋人はかっこよくないかもしれないから。
別れたばかりの人には、自慢しているように思われるから。
でも装いを重ねていけばいくほどに、その内側に存在する純粋な「それ」は存在感を失い、根幹を見失う。
そうして薄っぺらになって、カスカスの存在だけがこの世を彷徨う。
存在していることに、気づいてもらえない—認識してもらえない「存在」は、消えてしまう。なかったことになる。
「存在」がそこに存在するために、誰かに認識してもらうことで存在できるのだとしたら。
新しいSNSでは、装いを解いた純粋な「存在」がそこに在るのだと、認識することができる。
そこに映し出されているのは実体をもたない純粋な「自己」。
実体をもたせないで実態を表せられる。
たとえ攻撃をうけたとしても、実体がないのでダメージは受けない。
それは自分のために。自分だけのために。
自分で認識をすることで、そこに純粋な「私」を存在させられる。
存在させられるから、自分の中から生まれたものを、抱きしめられる。
周囲の人々も、そこではその「存在すること」を喜びあいます。
教え聞かされてきた、”魂の世界”のようです。
なんと心地の良いのだろうと、漂うような気分を味わっています。
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