「本質」へ一歩



昨年の今頃、挙式を挙げた…まだ迫る影を楽観視していたころの、日常最後の挙式となった新郎新婦様と先日お会いしました。

そうして、改めて新型コロナウィルスが現れてから一年経っているのだなと実感します。

いつもなら、何気なく去年と今との変化をふんわりと感じさせるだけのものが、新型ウィルスのおかげで、どことなく変化した物事をはっきりさせている気がします。

それは、社会にとっても、個人にとっても。


2020年の3月なんて、誰も今日の自分を想像なんてできなかったはずです。私は微塵も想像していませんでした。生活も、心の内のことも。

それはちゃんと変化の波に乗っかっている証拠なんだろう、と少し安堵するし、取りこぼすことなく全体が変化していく面白さを体感します。

感染者増減の波に合わせて、ものごとは決断を迫られ、常に浮き沈みをしている。

結婚式をどうしようか、と悩まれる新郎新婦様達をみているのはやはり心苦しいです。


常日頃から、結婚式・ご披露宴にまつわる決断に同席し、アドバイスし、決断することを促す中で、この準備の時間は「人生観」—とでも言うのでしょうか、これまでの生き方、思考の仕方、人との関わり方などがつまびらかになり、この「人生の晴れの日」をきっかけに変化を起こしたり、見つめ直す時間になる。そんな風に考えていました。

とくに家族仲や親族間の関係の様相は顕著に現れますし、ものを決める時の癖などは「一生に一度」という呪いの言葉が惑わせたり、むしろより研ぎ澄まされたり。人それぞれの反応を引き出します。

なんとなく「結婚式がどのようになるか」は、その人の人生観を表し、そしてそれから先歩んでいく道を、どのように進むかの指針になっているのではないかと考えるのです。


だからこそ「人生の晴れの日」である当日よりも、そこにいたるまでのプロセスを重視しているのですが、最近はその中でより人々が自身の中にある「真実」に至れるようになってきたな、と感じます。

昨年の最初の緊急事態宣言のなかでは、みな突然のことで混乱しながらも「まずは延期だ」と日延べをしていました。

以前までは、それほどにこの晴れの日を迎えることが当たり前で、絶対的でもありました。

日延べをして(でも)、いずれ行うもの。

だれもがプロポーズをされたらゼ●シィを買って、式場を選んで、ドレスを着て親に手紙を読む。

それが「当たり前」で「普通のこと」。たまに違うことをする人もいる。

ただ、一年が経ち、様子が変わってきたように思えます。

「そこまでして、すべきなのか?」という問いに答えを出し始めているのです。

それも、それぞれの答えを。


式場側の人間としては、当然「した方がいいに決まっている」という思考です。もちろんそこには、その晴れの日を迎えることそのもの、将来その日を振り返った時に得られるものがあると、知っているからではあります。

とはいえ、その価値観は—その世界観は全ての人に当てはまるわけではありません。

終わりの見えない不安を、一つでも終わらせたい。

そう考える方もいるでしょう。生きている中でこの不安を減らせる要素があるとすれば「結婚式」。別になくとも死にはしませんから。

夢があって無理をしていた。けれど妥協案が別にある。

夢は某夢の国で盛大なウェディングだったけれど。「結婚式がしたい」から、式場を地元の神社にして、地元の料亭で食事会にします。

「なにが本質か」を考えた末の結論。それは素晴らしいことでしょう。


今の社会は緊張が走り、みな微妙なところでバランスをとり続けている最中ですが、おかげで「結婚式とわたし」というものを、考えるきっかけになり、その時間を与えてくれているようでもあります。

きっと「結婚式」というイベントに限らず、様々なところで同様のことが現れているのでしょう。

「人と会うことを遮断されている」と言いますが、実際会おうと思えば誰とでも会えます。ただ、ハイリスクなのです。

そのリスクをおしてでも会いたいと思う人がいるのか。オンラインでいいか、と思えるのか。いっそ会わなくてもいいかと思うのか。

「ねえ、それって本当?」

「それって本気?」

覚悟を問われ、考える時間があるように思うのです。

Photo by Mathieu Turle on Unsplash

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