この身体がきれいだと思えないとき
「スタイルいいね」
「十分細いですよ」
褒めてもらえるのは嬉しいけれど、なかなか納得はいかない。
「あの人…痩せ方まずいですよね…」
うん、そうだけど…それはきっとさ——
モデルという肩書きを、プロフィールに書かなくなったのにはちゃんとした理由があって、誰かの表現に一役買うことは好きでも、”モデルらしくあらねばならない”ことが嫌で
「ふーん、モデルって言ってもこの程度じゃん」
と分かりきったことを人に言われるのがすごく嫌で
きっとそう言われる・思われると怯えている時間が辛くて
書かなくなった。
でもモデルのお仕事は、最近は楽しい。
”モデルとしてモデルのお仕事をする”のではなくて、”『私』がモデルのお仕事をする”と解釈するようにしていれば、心は軽くなるから。
だって私は、決してモデルなどと名乗ってはならない醜いものだから。
もともと、骨格なのか体質なのか、典型的な洋梨体型に陥る。
気虚体質で、体力もないから運動が続かない。
もちろん、自分の中で理想の体型があって、そこに近づこうと努力もする。
でも一方で、細くて羨ましい人を見ていたら
「こんなに痩せてちゃ、使えないんだよね」
という言葉が聞こえてきたこともあって、やりすぎちゃダメなんだ、とも理解している。
ただやっぱり、そういうのは、
痩せなくちゃダメで
でも、モデル以外の仕事してたらそんな余裕なくて
でも痩せなくちゃ、使ってもらえなくて
使ってもらえなかったら、役に立たなくて
役に立たないから、愛してもらえなくて
と、ひどいループに落ちそうになる。
事務所に所属していた時はこのループが酷かった。
ただ、あるきっかけで事務所を辞めて、自動的にこのループからは一旦離れることができた。
離れただけなので、根本解決はしていなかった。
でも今はこのループにはハマらない。ハマっても、2周目くらいで抜け出す。
「どんな自分の姿も美しい」というボディポジティブの合言葉は結構無意味だ。
自分に対して求めている「美」がある限り、”どんな自分の姿も”とは容易に口に出せない。
周囲にどんなに「あなたは十分美しい」と真実の言葉をかけてもらっても、本人が「いや私のモノサシでは足りんのよ」と思えば終い。
だから私の場合は、”どうにかしないといけない”のは「自分を認めること」より「自然に在るがままの美」を知ることだった。
手を加えていない、自然なままのものの美しさ。
数年間、日本の大自然や精神世界にどっぷり浸って得たものは、あるがままの姿に見出す『美』。
私はこれが功を奏したようで、「まぁ、理想とはいえないけど、『自然体の美』と言えなくもない」と心を落ち着かせることで、ネガティブループから抜け出す。
でもポジティブな時にはがんばる。
がんばるのは、辞めない。だって自分の思う綺麗はやっぱり雑誌やステージで見る人の肉体美だから。
作り上げられた肉体美だって、美しいものだと私が思うなら、やっぱり追い求めたい。
”美を追い求める”ことこそが私の美学だから。
目的と手段を見誤るなとはよくいうけれど、ちょっと似ているのかもしれない。
”美を追い求める”からこそ、どんな美が自分の美学なのか、意識する。
心が荒んで、うつむいている表情で痩せている時より、
すこし油断してしまった時でも、幸せいっぱいの表情で居られる方が『美しい』。
そういう『美学』を少しずつ、構築し始めている。
「あれ、痩せすぎでちょっと違いますよね」
と話を振られても、もう私はその話を振った人と同じトーンでは話せない。
「…—あるんだよ」
どんなに本人にとって深刻で、それでも抜け出せない
—抜け出したくない葛藤と戦う気持ちだけはわかるつもりだから。
Photo by engin akyurt on Unsplash
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