"ネガティヴ"を見つけたらほじくり回す
「あ、お役御免ってことですかね」
「お払い箱ですね」
「用済みっスか」
口癖のように出てくる。
癖として出てくる"そういう方向にする"言葉を、なるべく頭の中で、素直な方向に変換するようにしているのだけど、こればっかりは変換が難しくて、困っている。
まあこの言葉は大体男の人に言う。
みんな何度か私という「コンテンツ」を楽しんで、消費したら、ポイする。
役に立つか、役に立たないか
自分を「コンテンツ」にしている自分がいる。
それは引き出しが多いほどに喜ばれるような、浮薄な人間関係ばかり築いてきた故なのかもしれない。
そうして、コンテンツは消費され飽きられると、人々は別のコンテンツに移っていくので去っていく。
親しい人に会うことを躊躇う時、必ず相手にとって私と過ごす時間は有益なものになるだろうか、と考えている。
たとえば一緒に映画を見にいくのは、映画を見る「ついでに」私と過ごしてもらう事になるので、心的負担が少ない。
常に、私がいなくても成り立つ予定でないと、人を誘うのはプレッシャーで、「(相手にとって)私がいないと成り立たない時間」など存在しないし、あったとしても無価値だと思っている。
——私は無価値だ。
こういう"思い込み"を解除するためには、裏打ちする経験を探るのがいい。
まず思い浮かぶのは、その考えの後支えにしている経験。
元彼は、私に飽きたら突然姿を消して、気が向いたら戻ってくるのを何度も繰り返した。
私の目には、電池が0%になった携帯を捨てて、充電された頃にまた拾いに来るように見えた。
10年くらい、何度もそうだった。
繰り返しを引き起こしているから、どこかで「自分はそうされて然るべき」と思っているのがもう透けて見える気がする。我ながら哀れだなぁ。ヨシヨシ
——私の人生は悲劇でないといけない。
じゃあ、その思い込みの元型はなんなんだろう。大抵こういうものの発端は、些細な幼児体験だったりするけど、記憶には思い当たるものがない。
子供の時の記憶なんて曖昧なので、思い出せないだけかもしれないけれど、下手をすると現世ではそんな経験はなく、過去世からの傷だったりもするから、本気で掘るには、ちょっと人の手を借りないと難しい。
ただ、歳のわりに長いこと"スピリチュアル"なこと、内側のことに触れて生きてきたけれど、ずっとヒーラーたちに
「あなたは在るだけで素晴らしいのよ」
と諭されてきた。
もはや"諭される"レベルで強調されてきた。
頭では理解しているし、その個々の魂はそれだけで美しいと、自分が誰かのヒーラーになるとき——セラピストの顔になるときは、本当にそう思っている。
でも、自分自身に対してはどうしても、そう思いきれなくて、ここ数年少しずつそこにフォーカスしているけれど、なかなかうまく身につかない。
まるで贖罪のように
私の人生は悲劇であらねばならない。
私はそう在ることで、赦しを乞う。
誰に、とか。何の罪を、とか。考えても思い出せない。
ずいぶん長いこと、ずっとそう考えているらしくて。
もう、思い出せない。
私は無価値だから
だから愛されない。愛されるはずが無い。
私が足りないばっかりに、結婚するに相応しいと思ってもらえなかった。
「我が子の嫁には相応しくない」という評価だった。
もっとたくさん身につけなくてはいけない。
節制して、宝飾品も美しく身につけられるように。
——そうしたら、すこしは役に立てるはず
勉強して、お喋りが弾むように知識をつけないと。
——そうしたら、もっと役に立てるはず
「言われなくてもわかるように」人の心を読む能力がほしい。
——そうしたら、「わからないなら、いい」と捨てられない
結局、ネガティブなものとはそもそも相性がいいから、「とにもかくにも」とポジティブになる訓練をするだけではなくて、こうしてネガティブなところを掘って、掘って、並べて、
「うわぁ…」
って自分自身に引いて、俯瞰して、考えた方がいい時がある。
だけどやっぱり、この問題が次の課題。
「だから、やっぱり」と
この鋼みたいな扉に手をかける。
Photo by Grant Whitty on Unsplash
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