いつまでそのステージにいるか、どうするか

「そういう時期」というものは、多くの人にも思い当たるものだと思っている。


たとえば最近のわたしは、

自分一人で完結させられる、できることについて。

がブーム。

自分のできない事は新しく覚えたり、できるツテを頼ったりしていたのが、

いま手元にあるもので完了です!

というモードに入っている。


それは、

もう十分に自分の中に蓄積されたものだけで完結できるくらいになったと自覚せよ

という事なのかな、という解釈をしていて。



わたしには決してサイキックな能力はないから、神様の声もハッキリ聞こえないし天使も見えない。

だからヒーリングツアーや講座の受講、定期的なセッションが欠かせなかった。

そうやってインプットして、みんなと足並みを揃えていないと、魂のアセンションのチャンスを逃してしまうとか、そんな風に感じていたから。


ただ盲目的だった当時でも、これっていつまでも続けるものなのかな?と、心の奥底でふんわりと思っていた。
それが、きっかけがあって足が遠のいて、はじめはそれも不安だったのに、寧ろ感覚は研ぎ澄まされていって、お金も体力も時間もとれる限り使ったのが嘘のように、取捨選択ができるようになった。


いまはスピリチュアル関連の高額な講座は受けなくても平気でいられるし、興味のあるトピックスのワークショップくらいしか行かなくなった。
それは学びを"修了"したのではなく、私の中に蓄積された知恵と経験が、そうした分野に関する学びをキャッチするための受容体を立派に育て上げたという事なんだと思っている。

「掴めないかもしれない」という不安から解放された。
わたしに必要な事なら、目に留まるし気がつく。その学びの場に行く準備が自然と整う。
だから、こっちから必死にとらなくても大丈夫だ、って思えるようになった。


がむしゃらに自分のこころの事や、人の生き方について勉強したかったあの頃は、今では信じられないくらい貯金をして、講座やツアー、個人セッションに費やした。
仕事も今では考えられないほど休みを申請していた。
それが可能な環境だった。生活もわたしのモチベーションや身体的なコンディションも。
あの時から「必要であれば、環境がそうさせてくれる」のは変わっていないんだから、そういうところも安心できるのかもしれない。


誰かと話している時も、全然違うとこらから湧き上がるひらめきの言葉が、相手の心を軽くしてくれる。
いま耳に入ったこの曲は、何かの合図だと思ったら、良いきっかけになる。
明日虹が見れそうだなと思ったら、空を見るから虹が出る。

それは単なる偶然だと、片付けてしまうにはわたしの頭の中はハッピーにできすぎていて、全部「意味がある」。そういうことに出来る。
なんとなく"このあたまの作り方"のロジックが、浮き上がってきている。いつか、必要な人にわたせるようにしておきたいから、たくさん考えて、いろんなところに書き留める。

ほら、自分のなかにあるものだけで、かたちになってきた!

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