わたしのなかの「ちぃ」という存在



高校生の頃のあだ名が「ちぃ」でした。

全く名前にも、何にもかすりさえしないこのあだ名の由来は、高校に入ってすぐのクラスメイトとの思い出から名付けられました。

なので、私は高校の間は"ちぃ"でした。
あ、『ちょびっツ』由来ではないとだけ、宣言しておきます。


"ちぃ"はわがままで、思ったことはそのまま口にする子でした。

ふつうなら、疎ましく思われてハブにされたっておかしくない。
それでも"ちぃ"の周りの人たちは、心根の優しい人ばかりで「まぁちぃやし…」と呆れながらもそっとしておいてくれたのだと思います。
本当に守られていたのだと思います。

人にも、環境にも…様々な条件が、様々な方面から"ちぃ"を守ってくれていました。

だから"ちぃ"であった頃は、甘えたで、自由奔放で、その一方とても素直な人物でいられたと思います。


高校を卒業すると、"ちぃ"のいた世界は無くなります。
そもそもが、学校という世界の中にあったので。


しばらくは、"ちぃ"もいたはずなのですが気がつけば、わたしの中から"ちぃ"は姿を消していました。
今の私は—自覚さえあまりなかったのですが—、あまえなどは許されなくて、弱みなど見せることなど許されないと思っている。
それは、人に頼らずに自立した女性でいなければならない、という価値観。
とくに、”男性にあまえてはいけない”という価値観。


例えばそれは、おおくの同性から反感を買いますから。

例えばそれは、社会的な依存ですから。

そうであってはならないと、どこかのタイミングで…何かに思わされていたようでした。

徐々にその価値観は「ガラじゃない」といった言葉が代弁するようになりました。
ですが、この1年ほどでまるで砂の城が溶けていくように、いろいろなものが私から取り払われていきました。
そのうちの一つがこの「ガラじゃないと虚勢を張る」ことです。

メタ的な女性像。

か弱く、男性に守ってもらうことで存在するもの。

どうやらそれは、わたしの本質から枝分かれしているものであり、わたしの中に"ちぃ"と名付けられている存在のようなのです。


"ちぃ"はディズニーのお姫様のような古典的な女の子のようでした。
「本当に好きなものは…」
「本当は…」
と続く時に最近は"ちぃ"が顔をのぞかせるようになりました。


「ちぃはね…」

と、つい先日”ちぃ”が小さな声をこぼしました。
あんまり突然のことだったので、驚いてしまって自分に何がおきたのかしばらくわからないままでした。
ただどうやら、目の前にいたその人が”ちぃ”を引き出してしまったようでした。
それ以来、わたしのなかで”ちぃ”が時々顔を出して嬉しそうに笑う瞬間が出てきました。


”ちぃ”曰く、最近は呼ばれている気がしたそうです。
”ちぃ”のことを思い出す準備が、わたしになされていたのでしょう。
いつかは、ちゃんと”ちぃ”と”わたし”を統合しなくてはならないのでしょう。

閉じ込めてしまっていた”ちぃ”と話し合う時間がやってきたようです。


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