ひとり、に注ぐ
田舎に引っ込んでもうすぐニ年。 お出かけは、ちょっとエネルギーが必要だ。 街に出るのにお京阪で四〜五〇分。 自宅周り徒歩圏内には本屋も少ないうえ、購買欲が削がれる。 必要最低限の生活必需品は揃うけど、文化的娯楽がない。 だから街へ出る。 でも結構これはしんどい。 自分ひとりのために、そのしんどいを押して行動に移るのは億劫だ。 先日、お稽古のついでに大好きな下鴨神社を訪れた。 南へと下洛した身には、北にある好きな神社にもふらっと行くことが減ったので、お稽古がここから徒歩圏にあるのが嬉しい。 この日は早朝のお稽古だったので、昼前にはお参りができた。「ついでに」と、周辺にあるウワサのパン屋へ立ち寄って、糺の森でひとりぼーーっと散歩して、参道を横断するカタツムリを応援して、小川のせせらぎを眺めていた。 ただ、それだけのことだったのにも関わらず、夜には「今日は楽しかったなぁ」と珍しく思っていた。 「ついで」と言いながらもこの日は、疲れやすい身体を引っ張って、自分一人のためにパンを買い、自分ひとりの時間を満喫していた。 ひとりだから、足元で見かけたカタツムリを応援しても人の時間を奪わないし、好きなだけ小川のそばに座っていられる。 平日の糺の森なんて同じような人がうろついていて、人の目も気にもならない。 こうして、はじめて「自分ひとり」の楽しさを知った。 もともと、"ひとり"は苦手だった。 知らない場所にひとりで行けるようになったのは、ここ数年のこと。 ファッションも、何かしらのお買い物も、ひとりではそこに自分が足を踏み入れて良いものなのか、そこで自分が選ぶものが正しいものなのか、全てが不安で仕方なかった。 私がひとりですることは、何一つ正しいことなどないと思っていた。 その本質とは、私が私自身を信用しておらず、私がひとりで決める事は何もかも正しくないのでは?という不信感。 自己信頼なんて、なかった。 あの時のあれが、あの人の言葉が、と言う決定的なきっかけはない。 それでも私は少しずつ、すこしずつ、「ひとり」ができるようになってきた。 ひとりでウインドウショッピングならできるようになった頃のこと。 ひとりで、服を選んで買えるようになった頃のこと。 自分の中でどうしても、どんなに強い超自我の声を押してでも、曲げたくなかった気持ちのこと。 少しずつ、すこしずつ。 ...